独行法反対首都圏ネットワーク

国立大学の独立行政法人化に対する私達の見解
(1999.12.22 金沢大学経済学部教授会)


国立大学の独立行政法人化に対する私達の見解

1999年12月22日
金沢大学経済学部教授会

 現在、国立大学の独立行政法人化への動きが急ピッチで進められている。しかしこの動きの中には、単に国立大学を安上がりな組織に変えるだけではすまされない大きな問題が隠されているように思えてならない。特に人文社会科学を専門とする私達にとって、こうした一連の動きの中には、私達の学問それ自身の存在理由に対する深刻な挑戦の臭いを感じないわけにはいかない。

 政府や経済界さらにはマスコミを通して聞こえてくるのは、市場原理や新自由主義といったきわめて経済学的な言葉ばかりである。あたかも、これらの言葉こそが日本経済の長期にわたる低迷を救い、この日本社会全体を覆っている暗い影を払拭してくれるかのような印象が広がっている。そしてその中で、この国立大学の独立行政法人化への動きが信じられないような速さで進められている。教育や研究の分野に競争原理を導入せよ、あるいは今の国立大学を効率的な行政組織に組替えよ等々、巷には経済の言葉があふれている。これしかない、問答無用という雰囲気である。

 しかし、果たしてそうだろうか。イギリスやドイツの例を引くまでもなく、西ヨーロッパの先進諸国においては、すでにこうした市場原理万能あるいは新自由主義といった言葉に対する疑問が広がり始めている。これらの言葉が輝きを持っていたのは80年代までのことである。90年代にはこれらの言葉への反省の方がより一般的だというべきだろう。というより、これらの言葉が引き起こした新たな社会的あるいは経済的な問題の克服こそが、今の私達に課せられたテーマだといってもいい。

 私達にとっての最大の問題は、まさに現在進行しつつある人文社会科学的な知の荒廃にどう立ち向かうかということである。戦後半世紀に及ぶ新制大学の歴史の中で培われてきた学知としての知の矜持はいつしか失われ、今やそこに残るのは単なる情報量の多寡を競う見せかけの知のみになろうとしている。そして、これを作り出してきたものこそ、まさに魂なき専門人へと人々を闇雲に駆り立ててきた80年代以降の増幅された市場原理そのものだと言わねばならない。国立大学の独立行政法人化への移行とは、こうした一連の流れの仕上げを意味している。

 これに抗することが出来ないとき、それは私達の知の終焉を意味する。いな、これは単に大学における知の終焉を意味するばかりではない。大学内で進行している知の腐蝕の過程は、すでに、広く中等・初等教育の中にまで浸透し、青少年の心を蝕み、いまや深刻な社会問題を引き起こしている。にもかかわらず、何故これらの問題は等閑にふされ続けるのか。バブル期の甘い幻想を捨てきれない人々にとっては、この経済的不況から抜け出せるのなら、何をしても許されると思えてしまうのだろうか。たとえ将来の日本社会を支えていくはずの青少年の心を犠牲にしたとしても、恥じるところがないのだろうか。単純な競争原理の中で成長することを余儀なくされた魂には、たとえ大学に入学したとしても、そこには最早、学知としての知を我が物とするだけの力が残されていないこともありうる。と同時に、彼らの前では私達の学問そのものですら、何一つ積極的な意味を持ちえなくなることだってありうる。大学の中から緊張感をもった対話がなくなるとき、そこに待っているのは、とどまるところを知らない知の腐蝕の過程のみである。私達が解かねばならないのは、この悪循環をいかに断ち切るかということである。競争原理を導入すれば大学が再生されるというのは、幻想に過ぎない。安易な競争原理の導入こそが、大学を含めて現在の教育現場全体の荒廃を結果させてきた最大のものだということを、今こそ認識すべきだろう。

 社会には多種多様な領域があり、複数の価値観が存在している。利益とか富という言葉にとらわれていない領域も、いまだに数多くある。市場原理や競争原理に期待されているのは、これらの複数の異なった価値観を一つの価値観に収斂させてしまうことである。社会のあらゆるものを、利益とか利潤という言葉で測られるようにすることである。しかし、学問や教育の世界では、すべてを測る唯一絶対の価値などあるわけがない。論文の数で学問を評価し、有名校への進学や一流企業への就職で教育の成果を測ることだけがすべてではない。経済の領域においてでさえ、利潤を上げさえすればいいという信仰がどのような結果を生んだかは、バブル期の日本経済を見れば一目瞭然だろう。大学を競争原理だけで考えることしか思いつかない今の政治や経済の体質こそが、問われなければならない。

 国立大学の独立行政法人化への動きを容認することは、戦後半世紀にわたって培われてきた日本の人文社会科学の伝統を否定することと同義である。この動きが意図するものは、単なる経費削減などという表面的なことだけではない。その背後で意図されているものは、大学を単なる行政の一機関へと組替えることであり、学問と教育を行政の意志に忠実なものへと変質させることである。だからこそ、競争原理が導入され、価値の一元化が図られようとしている。これは、まさに戦後民主主義の背骨を担ってきた私達の人文社会科学への挑戦であり、と同時により直接的に戦後民主主義そのものへの挑戦と言わねばならない。

 世界的水準などという言葉に惑わされ、自らの学問への誇りを失うようなことをするのは、最も愚かしいことである。私達が目指さねばならないのは、私達自身が、そして学生達が、まさにこの人文社会科学的な知の営みを通して、ともにこの多種多様な価値が共存する社会を担うものとしての自覚を共有出来るようにしていくことだろう。国立大学の独立行政法人化への動きは、それとは全く反対の方向を目指すものである。私達は、これを決して容認することは出来ない。


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