独行法反対首都圏ネットワーク

関連文献の紹介
(99.11.15 [he-forum 359] 文献紹介)

関連文献を二点紹介します。

1. コンピュータ・サイエンス雑誌の
bit, Vol. 31, No. 12 (December 1999), p. 15に「これが国立大学の生きる道」というコラムが掲載されています。面白い文章です。

2. 和泉書院のPR雑誌『いずみ通信』1999-10 no.26, pp.9-11に、「文系基礎学の危機 ―人文学として―」という中野三敏(なかのみつとし)福岡大学教授の文章が掲載されています。以下、その全文を引用します。

 いわゆる大学改革も一段落した所で、今度は独立法人化云々という問題が生じて、やがて国立大学にも波及するのは必至だという。改革、法人化、それぞれに必要とされる理由は当然あるに違いないので、必要とする部局がそうなる事自体は少しも構うものではない。しかし、どうしてもそぐわないし、それ所か命取りになりかねぬ部局や分野も明白に在るのに、世論はひたすら改革・改革の大合唱に酔い痴れているようなのは一体どうしたことか。
 私は事ある毎に、文系基礎学(従来文学部に包攝される分野、具体的には哲学・史学・文学科として位置づけられてきた分野を云う)にとって、これ迄の改革の方向性や独立法人化の動きは、極めて憂慮すべきものであることを訴え続けてきたつもりである。しかし、この国の文教行政の方針は、明白に文系基礎学の切り捨てを図っているようにさえ思える。
 所がそれに対する根本的疑問が、世間はおろか当事者の間からさえ殆ど発せられないように見える現状は、驚きを通りこして、ひたすら唖然とするしかないように思う。
 国立大学の文学部という現場が、今日迄殆ど二十年近くも、極めて劣悪な講座費(これは教官の研究費と学生・院生に対する教育費の凡てにあたる)に甘んじてきた現状に関しては、拙著『讀切講談・大学改革』(岩波ブック・レット)に述べた所だが、以下要点のみを略述したい。この国の予算策定方針は文教行政も土木事業も全く同じ尺度で行なわれ、何か前年度とは違っていれば、それに見合う予算増が行なわれる事になっている。しかし文系基礎学というものは、それが本当の基礎学である限り主要な部分は変り様がない。否、変ってはいけないのである。そこで哲・史・文はそのままで何がしか新らしい学問分野を増設する事で当面をしのいだ。そこへ大学改革の風が吹く。文部省はそれとなくその有効利用法を囁いた。第一段階が教養部をつぶして学部の学科増設の資源とする事であり、それも一段落した。しかし哲・史・文の予算措置は何等変らない。愈々たまりかねた現場は最後の奥の手として名称変更による新しさのアピールを図った。曰く人間・曰く国際、情報、文化等々々。結果、国立大三十数校の中、平成十一年現在、旧態依然たる哲・史・文の学科名を残すのは僅か三校のみとなった。但し現場では何れも学問の中味は変えぬ事を申合わせた上で、名称だけを変えるという幻術を使った。何故か。無論、基礎学である以上、変えてはいけないものである事を、旧態依然が基礎学の本分である事を、現場は十分承知しているからである。その上での苦渋の選択であり、幻術である事は皆がしっていて、決して表には出せない理由であった。しかし中味は時と共に必らず名前に即応して変る。実際の話し、そうでなければ大学は受験生に対し、自ら詐欺を働く事になろう。その結果、恐らく二十年後、この国では哲・史・文の学問は消滅する事になる。それはまだ良い。哲・史・文の基礎を失ったこの国の自然科学・応用科学が、その時どのような姿となっていることか、考えるだに恐ろしい。即ち哲・史・文という学問体系は、人文科学というより人文学として、自然科学の基礎学でもあるのである。その人文学を、この国の文部行政は土木事業と同列にしか考えず、現場の教官も、そのような行政に自らを適応させる事のみに智恵を絞り、その不都合さを追求して正当な処遇を求める事を一切放棄しているように見える。それは何故か。
 大きな理由の一つとして、科学研究費による目くらましがある。科研費は講座費と違って重点配分に適している所から近年大幅に伸び、人文科学の分野でもそれなりに潤沢になった。即ち教官の個人研究費として極めて歓迎されている。それはそれで良い。但し残念なことに、それによって大学教官は講座費の予算措置などにすっかり興味を示さなくなったのである。しかし、大学教官は確かに個人研究者であると同時に、又確かに次世代の研究者や高度の教養人を育てる教育者でもある。といっても文学部のような所では研究者養成の為の特別な心構えや技術がある訳でもない。最大・最高の心構えは、学生が自ら勉学意欲に目覚めた時、それに応える為の書物を最大限に取揃え蓄積しておいてやるという一事に尽きよう。文系基礎学の必要図書は、自然科学とは違って以後数十百年にわたり利用されるもの故、その蓄積の如何は尚更の意味を持つのである。そしてその購入にあてるのが他ならぬ講座費であり、それ以外にはあり得ない。くどいようだが科研費は所詮個人研究費なのである。従って特に研究者養成大
学の教官が科研費にばかり気を取られて講座費に鈍感である事は、即、無責任のそしりを免れる事は出来ぬ筈だが、そのような無責任が今や大勢を占めんとしているように見えるのは、私のひが目であろうか。ならばまだしもと思う。
 実は今一つ、より喫緊の問題がある。それは前述した通り、国立大学の学科名変更がこのま丶進行すれば、間もなく基礎学そのものの消滅は必至であろう。現に基礎学に関わる大学のポストが急速に減少しつ丶あるのは、現場の教官にとっては周知の事柄である。即ち現在のその分野の院生諸君はモロにその波をかぶり、大学院はでたけれど・・・が既に現実となっている。今、手を拱いていると将来にわたって基礎学の研究者の補充は不可能となる。就職も出来ないような学問に、当今の学生が喜んで従事するとは、現場を熟知している者にとっては到底考え難い事なのである。直接的には就職問題という生臭い次元の話にすぎないが実は基礎学の学問としての継承不能という重大な局面を持つ。まさか自分の身分は確保されているという安堵感に、凡ての教官がもたれか丶っていると迄は思はないが、科研費の獲得や大学院大学教官というステータス(だそうである)の獲得に奔走するばかりで講座費の充実や、不当な名称変更に走らぬ為には不可避である筈の、現行の予算策定方針の見直しを真摯に要求しようとしない教官というものがいるとするならば、それはまさしく研究者エゴの増大以外の何物でもあるまい。
 独立法人化の問題などは至ってわかり易い。要するに実施され丶ば文学部などは不必要と言われたに等しいのだから、それをめぐる議論は恐らくやり易かろう。出来る限り速やかに、その議論が湧きあがる事を熱望する。
 本年三月、我々有志はようやく日本文学関連学会連絡会議をたちあげる事が出来、こ丶に述べたような事柄を盛り込んだ声明文の発表も行なった。まずは日本文学関連学会の糾合から始めたが、これを諸外国文学、語学、哲学・歴史学の全分野に呼びかけ、賛同を得てはじめて意味のある運動となり得るものと信じている。ともかくまずは当事者自身が声をあげるべき時であろう。それによって世論もしかるべく立ちあがるであろう事を切に期待する。(福岡大学教授)



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