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多競争時代の中の大学と受験産業<その16>
“ドッコウホウ大学”への道は明るいか〜国立大学よ、どこへ行く
(1999.10 [he-forum 300] 教育環境研究所)
教育環境研究所という会社のページに下記の記事がありました。
http://www.erix.com/bunko/omuni/omuni16.htm
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多競争時代の中の大学と受験産業<その16>
“ドッコウホウ大学”への道は明るいか〜国立大学よ、どこへ行く
国立大学の民営化の話は以前からあるが、現実のものと思う人が少なかったせいかあまり議論にならなかったようだ。私もありえない話とは思わなかったが、激しい議論が前提になるものと思っていた。だから国立大学の独立行政法人化が俎上に上ったとき、どのような段取りで国民的な大議論が展開されるかと期待した。しかし、独立行政法人通則法が成立し、多くの国の機関が2001年4月から独立行政法人になると決められても国立大学だけは2003年までに結論を出すということで猶予機関が与えられ、議論は高まらなかった。ところが、このところ独法化の話が再燃したかと思う間もなく、瞬く間に独法化が既成事実のように伝えられるようになった。
反対の姿勢を維持していた文部省は9月20日、独行法化を認め、条件闘争に転換する「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」を発表した。各国立大学も建て前は「独法化反対」を唱えながら独法化への検討を始めている。文部省は、国立大学協会など関係者の意見を聞きながら検討を進め、来年度のできるだけ早い時期に特例措置など具体的方向について結論を得たいとしている。実施は従来方針通りの2004年度以降という話もあるが、このところの動きはせっかちで、前倒し実施という雰囲気が蔓延している。自自公連立内閣がスタートしたが、自自公の連携で多くの法律がスピード成立している状況を見ると、国民的議論がないまま決まってしまうかもしれない。「国立大学でもつぶれることだってあるさ」とのんきに構えていた私としても、これまでの動きをまとめ、考えてみなければなるまい。
独立行政法人化への動き
国立大学協会は1997年10月、「国の行政改革会議などで論議されようとしている、東大、京大を独立行政法人化する案、あるいは全国立大学を独立行政法人化する案」について反対することを決議して以来、現在まで国立大学の独法化に反対してきた。当時の決議では反対理由として「定型化された業務について効率性を短期的に評価する独立行政法人は、現在、多様な教育・研究を行っている大学に全く相応しくない」としている。そして、教育・研究の重要性を強調し、「高等教育の改革は、単なる財政改革の視点ではなく、今後のわが国の大学及び大学院における教育・研究の将来構想を策定する中で決めるべきものであると考える」と、国立大学の設置形態の問題が行財政改革のなかで扱われようとしていることに反発を示した。
その後の各国立大学、文部省の態度や動きも一部を除き、ほぼこの線に沿っていると言える。しかし、政府は、国家公務員の削減計画を推進し、今年7月には独立行政法人通則法を含む行政改革関連17法案が成立した。
今年1月に決められた中央省庁等改革推進大綱では、国立大学は「2003年度までに結論を得る」となっている。一方、1997年12月の行政改革会議最終報告では2001年からの10年間に公務員を10%削減することとされ、その後政府は削減率を25%まで引き上げた。自衛隊員を除く国家公務員85万のうち国立大学関係の職員は13万5千人を占め、このままでは大幅な人員削減は避けられない情勢となった。独立行政法人になれば定員削減の対象から外される。政府が国立大学に対して、大幅人員削減か独立行政法人化かの選択を突きつけたのである。
その結果は?。独立行政法人になっても職員は公務員として扱われる可能性がある。しかも人員削減は免れそうだ。お金はこれまで通り国から来る。しかし、独立行政法人通則法の内容に従うと、学長を文部科学大臣が決め、中期計画を事前に提出するなど今まで以上に国に縛られることになるので、特例で大学の自主性が認められるならば独法化に踏み切ったほうがよさそうだ−−。それが文部省や国立大学の現状における結論のようだ。
文部省は反対から条件闘争へ
国立大学協会第一常置委員会がまとめた中間報告(『国立大学と独立行政法人化問題』)によると、「独立行政法人通則法をそのままの形で国立大学に適用することは極めて困難であり、多くの問題を生じることは火を見るより明らか」として一応反対の姿勢をとっている。独立行政法人は、行政における実施機能を担当する組織として設けられたものであるが、大学では自主的な企画立案機能が確保されなければならず、独法制度は大学になじまない、というのである。その上で、独法化する場合でも、大学の理念や特質に照らして通則法の特例を定める「大学独立行政法人特例法」(仮称)あるいは独法化の対象としての大学自身についてその理念や組織等を定める「国立大学法」または「国立大学法人法」(いずれも仮称)が必要だと強調している。
さらに、文部省は9月20日、「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」を発表、考えを示した。これは、「国立大学を独立行政法人化する場合、国立大学の教育研究の特性を踏まえ、組織・運営・管理など独立行政法人制度全般についての特例措置等の検討を行う際の基本的な方向を整理したもの」と説明。国立大学協会など関係者の意見を聞きながら検討を進め、来年度のできるだけ早い時期に特例措置など具体的方向について結論を得たいとしている。具体的な特例の内容は、学長の任免権を事実上大学側に認めること、教職員の身分は国家公務員のままにすること、教授会・評議会などの組織を維持すること、などで、これらの特例を法律で定めるかどうかははっきりしていない(別表参照)。
文部省の方針に対しては、大学の職員組合を中心に反対する声が挙がっている。また、政府の中央省庁改革推進本部は、文部省案が通則法を逸脱し、大学の効率的な運営につながらないと受け止め、9月21日の顧問会議では、特例措置が必要かどうかなどについて検討する方針を決めた。自民党文教族議員の間では、「いっそのこと民営化して私立大学にした方がいい」という声が上がっていると報道されている。
「効率性」と「大学の本質」のすれ違い
こう見てくると、議論がすれ違っていることがわかる。政府や自民党は人員削減と効率化を大前提としているし、文部省、国立大学側は大学の特性を強調して現在の大学の機構や運営システムを温存しようとしている。そして、お互いに相手の主張を無視している。「独法化は効率化につながるのか」「特例措置をとれば大学の特性・自主性は守れるのか」、さらに言えば「国立大学の守るべき存在価値とは何なのか」が十分に議論されていないのだ。「もしかしたら国立大学が崩壊してしまう」とか「いや、かえって国民や地域に貢献できる、開かれた新生国立大学が誕生する」といったような国民的大議論があって、将来の姿が見えてくると思うのだが、今は国民から遊離した建前の議論だけで突っ走っているような印象を受ける。
国立大学協会の中間報告の内容をみると、次のような主張が並べられている。
○大学の本質を考えないで、単に効率性を求めることは大学の本質に反する
○大学に求められる効率性は、学問の自由を阻害するものであってはならない
○自主・自律のスタンスを学び取ってきた。設置形態の如何を問わず、この関係を発展的に持続させなければならない
○主務大臣の関与が、大学運営に関して実質的な統制・監督になりうる危険性を排除すべき
○民間の主体にゆだねた場合には必ずしも実施が期待できない基礎的研究の継承、新領域の開拓、国民に対する均等な高等教育機会の提供等、国立大学が教育研究において担ってきた役割を、将来においても実効あるものにするために、基本的には現行の経営と教学が一体となった運営体制を維持すべき
いずれも理解できる内容ではある。
阿部謹也・共立女子大学学長(前一橋大学学長)が毎日新聞に「崩壊に直面する大学教育〜独立行政法人化の問題性」と題する反対論を寄せているが、大筋で国大協の視点と同じである。阿部氏は「この五十年の間に特に地方の大学はその地域の文化と産業の向上のために尽力し、地域とともに発展してきた。それらは独立行政法人となれば、崩壊の危機を迎えることになろう。何よりも効率性でのみ学問や教育が判定されるようになれば、採算がとれない哲学や文学、数学などの基礎学問は大学から消えてゆくだろう」と断定している。そして「国立大学の独立行政法人化を防がなければならない」と主張する。この結論は条件闘争に移ったかに見える国大協や文部省とニュアンスがやや違う。
阿部氏が言うとおりに推移するなら大変なことである。なぜ広範な反対運動が巻き起こらないのだろう。阿部氏も「不思議なことに大学人の中から反対の声が挙げられていない」と指摘している。インターネットにはいくつも教職員組合の反対声明が掲載されているが、一般マスコミへの露出や街頭行動、大衆運動としての動きはほとんど見られない。学生の反対運動があったという話も聞かない。
国立大学の危機の本質
私は大学の中でも反対運動が盛り上がらず、国民的な関心も持たれていないというところに今の国立大学の危機を感じる。国大協が声高に主張する大学の自主・自立、学問の自由、大学の自治は誰のために機能してきたのだろうか。大学の教職員自身の保身のためではなかっただろうか。果たして、阿部氏が言うように「地域の文化と産業の向上のために尽力」してきただろうか。確かに、教員や医師の養成などはそうであっただろう。しかし、総体として地域貢献してきたのであれば、これほどの公立大学の新設ラッシュが起きただろうか。
住民が公害や薬害や自然破壊や差別や冤罪や校内暴力などで苦しんだとき、住民と一緒に闘ったり、住民の苦しみを和らげるために研究を進めた大学人よりも、問題を矮小化したり、国や企業の無責任を擁護するために尽力した大学人の方が圧倒的に多かった(多い)と、私は言いたい。石油ショックやバブル経済の崩壊のときに中小零細企業と苦しみを共にした研究者がどれほどいただろうか。産学協同が叫ばれる時代になったのに、いまだに中小零細企業は「国立大学は敷居が高い」と言い、国立大学教員は「地元企業や地場産業には研究を進める体力がない」と言い続けているのが実態なのだ。
もし、国立大学が独法化反対を国民に広く訴えるならば、大学の本質というものが自分たちのエゴのためにあるのではなく、国民に対して広く開かれたものであることを宣言しなければならない。地域の要望を謙虚に聞き、哲学や文学、理学などの実学的でないものの研究に対しても、また、金を食う巨大プロジェクトに対しても情報公開をして理解を求める必要がある。今のままにしろ、独法化されるにしろ、使われるのは税金であり、学費であることに変わりはないのだから。
特例措置は認められるか
マスコミの一部には、独法化は国立大学が自由度を増し、競争原理の中で生まれ変わるチャンスである、という論調もある。はたしてそうだろうか。
まず、文部省も国大協も独法化の条件として、教職員は国家公務員型、人員削減はしない、お金は国家予算からもらう、となっているが、そもそも独法化は行財政改革の流れの中で強制されようとしているものであり、独立行政法人が人員削減の対象外といっても、いつまでも無傷でいられるはずがない。もしかしたら、政府や自民党が言っているように、最初から特例が認められないことだってありうる。
新聞には、文部省は国立大学出身の有馬郎人氏が文部大臣でいるときの方が大学を説得しやすいと判断して方向転換したという解説もあったが、文部大臣は内閣改造で有馬氏から中曽根弘文氏に変わった。新文相は、戦後総決算を主張したタカ派の中曽根元首相の息子である。効率化を叫ぶ自民党の強硬な意見を反映しやすいとも言える。特例措置が認められなければ、大学の自治も自主性もあったものではない。すでに国立大学の職員人事は文部省の介入が強まっているとも言われる。自民党主導の独法化となれば効率性が優先されるだろう。そうなったとき、文部省と国立大学はどう対処しようというのだろうか。
東大の巨大化が加速する
独法化されると、国立大学間の差別化(予算の重点化)はこれまで以上に露骨になるだろう。私は、独法化になれば予算の東大への一極集中が顕著になる、と見ている。東大の柏キャンパス、駒場キャンパスに続々と建てられている巨大な大学院棟をみると、すでにそれは現実のものとなっているとも言えるのだが、独法化となれば、それが競争的環境の中で堂々とまかり通るようになる。京大といえども、相当な差がつけられるのではないだろうか。それは国家主義の色合いが強まっている自自公連立による政治状況と無縁ではない。
かつての公害反対運動や薬害訴訟などのなかで「箱根の山より東の先生には頼めない」という声を聞いたことがある。はっきり言えば、東大の学者は国家プロジェクトや国の審議会委員をやるような人ばかりで、住民サイドに立って活動してはくれないという不満であった。中央省庁の官僚を多く輩出している東大法学部は、大蔵省の不祥事や金融機関の解体を前にしても自らの教育を反省しようとしていない。独法化になると、東大はますます中央官僚養成、国家的巨大プロジェクトの推進に特化していくだろう。これまでの反省も謙虚さもなく−−。
他の国立大学のうち、大半は消えていくような気がしてならない。それは国立病院の運命とダブらせて考えてしまうせいかもしれない。廃止、統合、公立移管、民営化のいずれもあり得る。東大は国家プロジェクトを担い、中央官僚を輩出する大学、地方の国立大学の一部は地域の産業振興に貢献する大学、京大はその中間に位置する大学、という構図になるだろう。
では、阿部謹也氏の「基礎学問が大学から消えてゆくとき、わが国の文化に何が残るか」という危惧はどうなるだろうか。「今、国立大学はわが国の文化にどれほど貢献しているか」という議論はさておき、消えゆく国立大学を市民のものにしていこうという動きは出てこないだろうか、というのが私の仮説である。もともとヨーロッパの大学の起源を考えれば、大学は市民または市民国家によって育まれたものではなかったか。市民にとっては実学も哲学や文学も宇宙の知識も必要なのである。そこに、地域の産業振興にも文化振興にもつながる大学の存在意義が見いだせないだろうか。
国立大学として残るにしても、独法化されるにしても、大学に求めたいことは情報公開である。どのように意志決定したか、予算をどのように執行したか、ルールに則って運営をしているか、をガラス張りにしなければいけない。文部省は大学の評価を通則法にあるような国の評価委員会が行うのではなく、第三者評価機関としての大学評価・学位授与機構(仮称)が行うとしている。それはそれでよいとしても、私は大学を市民のものとして維持していくために「市民オンブズマン」の存在が必要だと思う。行政監視をやっているオンブズマンがモデルで、は政治党派の関与は許さない。そうすれば、大学は国民にとってもっと身近なものになり、存在意義のあるものとして維持されるだろう。
具体的なイメージの提示を
国立大学が独法化されると、横浜国立大学の名称はどう変わるのだろうか。「横浜ドッコウホウ大学」か「横浜ドクホウ大学」か、と考えていたら、2001年4月から独立行政法人に移行する国の機関が「国立」を名乗るかどうかでもめているという報道があった。担当省庁や国の機関は「国立」の言葉を使いたい、政府の中央省庁改革推進本部は使わせたくない、ということのようだ。
国立大学側は、独法化されても名称も変わらず、身分も変わらず、予算も権限も変わらない、とのほほんと考えているようだが、そんな甘いものではない、ということを自覚した方がよい。「残るも地獄、去るも地獄」という状況の中で、いかに内容を詰め、国民に明らかにしていくか、を真剣に考えて欲しい。イデオロギー的にただ反対や賛成を叫んでいるだけでは不毛の論議で終わる。そして、悲惨な結末が待っている。
報道の中に、独法化されると大学ごとに学費を決めることができるというのがあった。私は、1970年に大学に入学したが、当時授業料は月千円だった。私はそれを免除にしてもらって喜んでいたが、いまでも授業料が高いか安いかが大学を選ぶ基準であるケースも少なくはない。こういうことも含めあらゆる要素について、関係者は早急に、国立大学で残った場合、独法化した場合の具体的なイメージを提示して欲しい。