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幻想の独立行政法人化/小沢弘明(おざわひろあき)
(『未来』11月号掲載)
九月二〇日、文部省は臨時国立大学長・大学共同利用機関所長等会議において「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」を公表した。沈黙を続け、多くの大学人を疑心暗鬼の状態に置いたあげくの方針転換である。この場にいた学長たちの中には、これを、「国立大学にとってのポツダム宣言の受諾だ」と受け取る向きもあったと聞く。しかし、この摩訶不思議な文書と、同じく詐術に満ちた有馬前文相の「あいさつ」を読んだ者たちは、そのあまりの低劣さにかえって問題の本質に気付くことになったのではなかろうか。
思えば、今年一月二六日の「中央省庁等改革推進大綱」において、「国立大学の独立行政法人化については、大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成一五年までに結論を得る」となっていた。この時、結論が「先送り」されたことを喜ぶ声が多かったように思う。また、大学の「自主性」や多年にわたる「大学改革」への配慮を読み取ろうとした者たちもいた。しかし、この「大学改革の一環として検討」するという文言にこそ、現在の混乱した議論の状況を生み出す根源があったのではないか。
はじめに確認しておかねばならないのは、国立大学の独立行政法人化とは、実は国立大学の問題でもなければ、大学改革の問題でもないということである。この問題は、行財政改革の問題であり、しかもその中の「数合わせ」というまことに卑小な動機から生み出された。それは「官がどうしてもやらなければならないサーヴィス以外のサーヴィスからは、官は撤退する」(藤田宙靖東北大学教授)という「公共セクターの極小化」というイデオロギーに立脚しているものなのである。
<減量化が行財政改革だという錯誤>
独立行政法人という制度は、行政組織内部において企画立案機能と実施機能を分離して、このうち実施機能については独立行政法人化を通じて「業務の効率化」をはかることが目的となっている。これは、従来行政改革として行われた規制緩和や官民分担の見直し、地方分権化などの失敗の身代りとして、また、特殊法人のあり方に対する批判の高まり(動燃の問題など)を背景に、「起死回生の一打」として案出されたものである。中央省庁の「減量、効率化」を求める世論への回答として出されたのが、許認可や検査検定事務のように、「定型的な業務を大量に行う分野」を主たる対象とする独立行政法人化である。ここで第一の錯誤が生じる。本来、行財政改革には、社会が必要とする公共サービスをより効率的に供給するのにはどうしたらいいか、という外部的効率性(アウトプット)の視点が必要とされるのに、財政や公務員を削減して政府の大きさを減らせばよい、という内部的効率性(インプット)のみを重視した短絡的な発想に陥ったばかりでなく、それを末端の実施機能の部分に負わせようとしたのである。ここに実施機能の垂直
的減量(アウトソーシング)というキーワードが採用されることになる。
さらに問題を屈折させたのは、独立行政法人という制度が、実施機関ではないもの、定型的業務ではないものにまず適用されているという点である。具体的に見ると二〇〇一年四月に移行する組織は、各省庁に所属する研究所、試験場、博物館、美術館、文書館が中心である。また、二〇〇四年からは国立病院・療養所の移行が予定されている。これに対して、徴税、許認可、登記登録事務などの「大量反復的業務」の多くは、なぜか独立
行政法人化の対象からはずされている。
<拘束と従属の独立行政法人>
七月八日に成立した独立行政法人通則法は、主務大臣による長の任命・解任、三〜五年の中期目標の設定と指示・中期計画の策定、主務省の評価委員会と総務省の審議会の事後審査と事業の改廃を含む勧告、企業会計原則の導入、などを特徴とする。これは本来想定されていた行政末端の定型的業務を予定した内容となっている。そのような拘束衣に、広い意味で文化の領域に属するものを押し込めようというのである。とりわけ、主務大臣による大学への介入は、この制度の行政従属性を示している。さしもの藤田宙靖氏でさえ、次のように言わざるをえない。
「文部大臣によるこのような介入[中期目標の指示と中期計画の認可―小沢]は、現行の国立大学の場合には、存在しないところであって、この制度をそのままに大学に適用したとするならば、大学の自治に対する著しい制約ともなりかねない。従って、可能であるならば、この制度は大学には適用しないこととするのが、最も適切であろう。しかし他方、この制度は、いわば、今回の独立行政法人制度の一つの「目玉」でもあるので、個別法で、およそこの制度を全体として大学には適用しないこととすることが、果たして(少なくとも政治的に)可能であるか否かは、かなり難しい問題でもある。」(九月七、八日、東北大学における講演)
正直な人である。本来の制度設計とは異なる組織を「適用」の対象と考えざるをえない苦心がうかがえる。文部省も、自らの「検討の方向」を、「国立大学の教育研究の特性に由来する基本的要請と独立行政法人制度の基本的枠組みとの調整を試みたもの」だ、と言う。本来この「調整」は無理であるというのが文部省の立場だったはずである。中期目標の期間は「三年以上五年以下」だという通則法の規定のうち、「五年とする」というのは文部省のありがたい配慮と受け取るべきか。
文部省の佐々木高等教育局長は、一〇月一日の『日本教育新聞』のインタビューで、「自らの権限と責任で大学運営が可能となること、組織編成、教職員配置、給与決定、予算執行などの面で国による規制が緩和されること、教育研究など大学運営全般にわたり、自由な制度設計が可能となることの三点で意義があると説明した」と述べている。これを額面通りに受け取ってもらえると考えたなら、ずいぶん馬鹿にした話である。行政組織の末端と位置付けられた大学に、自主性や自律性はなく、予算削減を目的とする改革において「規制緩和」や「自由な制度設計」が適用された時は、不採算組織の統廃合、定員外職員の増加や派遣労働、パートタイム労働の横行、競争的賃金の導入、という結果になるのは目に見えている。
<文部省に当事者能力はあるのか>
同じインタビューのなかで、高等教育局長は文部省が繰り返す「特例措置」というものが通則法の枠組みを一歩も出るものではないことを自認している。しかも、「特例措置を設ける場合は法令事項もあれば、運用で処理する事項もある」と言う。
「特例措置」は「特例法」でさえないのだから、通則法を乗り越えることはない。
文部省の「検討の方向」という文書は、いまや各大学においてその細部に亘る比較検討が続けられている。しかし、その文言の一々に一喜一憂しても実は意味がない。独立行政法人化という幻想を受け入れた文部省には、経済戦略会議や行政改革推進本部、中央省庁等改革推進本部などの「民営化」の大合唱に抗するすべはないのである。
大学内部にも、また国大協にも「独立行政法人化」を「民営化」を防ぐための防波堤と考える向きがある。しかし、市場原理主義にもとづく効率的業務の果てには高等教育の企業化が待ち受けている。経団連や企業のシンクタンクのレポートでも、民営化への道筋が描かれている。「国立大学の独立行政法人化はそれを民営化につなげてこそ意味がある」(『日本経済新聞』春秋、九月二一日付)という発言は、この目標を端的に示した
ものであるだろう。
政治家たちの公約は、「民営化を視野に入れた独立行政法人化」(加藤紘一)とか「民営化か地方公共団体への移管」(菅直人)と明快であり、防波堤が幻想であることを明示している。民主党の政権政策委員会の提言はこう述べている。
「国立大学は、原則としてすべて民営化する。ただし、地方自治体が希望する場合には、公立化する。国立大学は、民間のインセンティブが働きにくい基礎研究などを行う少数の大学院大学に限定する。」
さて、独立行政法人は公務員だから安心で、定員削減を免れると誰が言っただろうか。すでに通則法成立時の国会附帯決議では、はじめは公務員型であっても、今後は「できる限り特定独立行政法人以外の法人」(つまり非公務員型の法人)にすることが謳われている。また、中央省庁等改革推進本部の第一五回顧問会議(九月二一日)では、「独立行政法人の職員数についても純減を図るべきであり、そのためには、将来の問題として、設立時には公務員身分を与えることとする独立行政法人について、同一法人に公務員身分を与えるものと与えないものの混在を認めて新規採用者には公務員の身分を与えないこととする等の措置を検討する必要があるのではないか」との意見があったという。いったい政府のメッセージは、国立大学を行政機関として統制することにあるのか、それとも「民営化」という「自
由」を与えることにあるのか、いずれであろうか。
有馬前文相は「あいさつ」の中で、独立行政法人化を「欧米諸国」の大学と同じ「法人格の取得」であると強弁した。これを聞いて「目から鱗が落ちた」論者もいるらしい(『読売新聞』一〇月一五日付、苅谷剛彦東京大学助教授)。しかし、「欧米諸国」のどこに行政法人となった大学があるのだろうか。まだ落とすべき鱗が何枚も付着しているようだ。
国立大学を独立行政法人とした場合、事後評価機関として予定されているのは大学評価・学位授与機構という名の組織である。これは教官三〇人、事務官一三〇人程度の組織だという。これが高等教育・研究のあらゆる面を「評価」し、中期目標の実施状況や達成度を測定するらしい。この文部科学省に従属する「独立行政法人」は、主務省と総務省の評価に耐えて自らをリストラしつつ、大学のリストラをはかることができるだろうか。それをしも「第三者評価機関」と言うのだろうか。
<「先行」独立行政法人の悲惨>
独立行政法人化は通則法が予定しているように、確実に統廃合と地域間格差の拡大をもたらす。すでに九月一四日の『読売新聞』が報じているように、国立西洋美術館、国立近代美術館、国立国際美術館の一法人への統合や、東京、京都、奈良の国立博物館を一法人に、また通産省の一五ないし一六の研究所を一つにするなどが予定されている。八三機関は五五機関となって法人化される。たとえ、文部省が国立大学をそのまま九九の法人に移行させるという口約束をしたり、さまざまな「特例措置」を講じたとしても、通則法の想定する組織の効率化とはつまるところこういうことである。
また、最近になって個別法の骨格が明らかとなってきた。それは、概ね、第一章総則(法人の名称など)、第二章役員及び職員(役員の名称・定数など)、第三章業務等(業務の範囲など)、第四章雑則、第五章罰則、附則、からなるらしい。いったいどこに通則法の枠組みを越える規定を置くことができるというのだろう。個別法で通則法を乗り越えるという幻想は見事に破綻しているのではないか。
独立行政法人化が急がれているのは、二〇〇〇年に予定されている総定員法の改正と定員削減計画の策定と関連している。とにかく減量化を図るためには、「純減」が必要となる。そういえば、すでに六月二日の『公明新聞』の「主張」には「独立行政法人の論議深めよ 民営化、解散など合理化の方途示せ」とあった。市場原理主義の立場からみれば、公共領域はこれほど不要とされているのである。
通産省の研究所のなかには、独立行政法人化にあたっていくつかの淡い期待があったという。一、独立行政法人化することで、外部資金の導入が活性化され、自由に使える研究費が増える。二、独立行政法人化によって定員削減の対象から外れる。三、実質的な研究体制や環境は五年後の評価まではさして現状と変わらない。こうした期待が幻想であったことは、すでに当事者たちによって気付かれている。大学は十分気付いていると言えるだろうか。国宝が売却されると困るから、独立行政法人化された博物館・美術館には与えずに無償貸与する、あるいは入場者数に影響するから博物館・美術館に限って「国立」の呼称を残す、といった姑息な行為はこの問題の本質を構成している。
<愚かな行為はまず止めなければならない>
国立大学は変わらなければならない。その通りである。しかし、それは私立大学の悲惨と比べることでも、「条件闘争」という迷路に迷いこむことでもない。ましてや、独立行政法人化に大学改革の幻影を見ることでもない。この新自由主義の市場原理主義というユーフォリアに、まず対抗することが必要だ。
私たちは、現代社会のシステムの危機を、単に冷戦体制解体後の新秩序をめぐる危機ととらえるだけでなく、制度疲労を起こしている近代というシステムの危機の問題として、さらには、環境や生命倫理、医と病といった人類史的危機の問題として捉えようとしてきたのではなかったか。そうした危機の解決に取り組むのが文化の領域であり、大学という場なのである。大学改革とは、このためにこそある。そのすべての試みが新自由主
義という短慮と錯誤によって押し流されてはならない。民営化のはての地域の大学の統廃合と、年間二五〇万円とも医学部では七〇〇万円とも試算される競争的授業料が導入された姿を想像してみよう。基礎研究の衰退と大学のビジネス化は何をもたらすだろうか。しかも、そこに至るまでに奇妙な独立行政法人という拘束衣をまとわねばならないのだ。
いったい二一世紀の高等教育と基礎研究はどうあるべきなのか、私たちにとっての公共領域とはどのようなものなのか、それを構想することがすべての始まりである。