独行法反対首都圏ネットワーク

存亡の岐路に立つ国立大学
歴史に禍根残す独立行政法人化
岩佐 茂(一橋大学教授)
(1999.10.27 しんぶん赤旗)

 国立大学は、今、重大な岐路に立たされている。文部省が、それまでとってきた国立大学の独立行政法人化(独法化)反対の態度を転換して、独法化を容認する意向を固め、九月二十日の国立大学長を集めた会議で、そのための「検討の方向」を提起したのである。文部省の「検討の方向」がはらむ問題点やその背景については、日本科学者会議編のブックレット『国立大学がなくなるって、本当?!』(水曜社)がQ&A方式で詳しく分析しているので、それを見ていただきたい。

<二重の意味で>
 もっとも本質的な問題点は、行政改革の一環として、効率化の観点から企画立案部門と実施部門とを切り離そうとする独法化が、二重の意味で、高等教育・学術研究の場としての大学にはそもそもふさわしくないことにある。第一に、教育研究は効率化の観点からなされるものではないからである。第二に、教育研究においては、企画立案と実施とを切り離すことはできないからである。
 本来、相いれないものを接ぎ木しようとするところに、どだい無理がある。だからこそ、大学関係者のなかからは積極的に独法化を推進しようとする声は聞かれてこないし、文部省もこれまで反対の態度をとってきたのである。ここにきて、文部省が、いくつかの「特例措置」をとるならば、「自主性・自律性」を高め、現行制度より意義があると主張するのは欺瞞でしかない。
 たとえいくつかの「特例措置」をとったとしても、文部省のいう独法化は通則法の枠内を超えることができないであろう。通則法では、中期目標は、三〜五年の期間で主務大臣が定め、それにもとづいて、法人が中期計画を立てるのである。そして、主務省内部におかれる評価委員会が中期計画の実施状況を評価して、その結果を総務省の審議会に通知する。審議会は法人の業績を総合的に評価し、必要に応じて勧告できることになっている。
 それにたいして、文部省の「検討の方向」では、中期目標や評価において「特例措置」がとられ、中期計画は、大学の特性に応じた「配慮」がなされるとしても、「原則として」通則法に従うことになっている。中期目標設定は文部科学省がおこない、その期間は五年とされ、目標設定においては「各大学からの意見聴取義務」を課するとしているが、これが現状の各大学からの概算要求時の“窓口指導”と同様に、文部科学省の意向を各大学に押しつける場になるであろうことは容易に想像できる。
<評価システム>
 評価にあたっては、文部科学省の評価委員会は、設置が予定されている「大学評価・学位授与機構」(仮称)が独自におこなう評価を踏まえて評価をおこなうものとされている。したがって(評価は、自己評価(第三者による評価を含む)「大学評価・学位授与機構と文部科学省の評価委員会、さらに総務省の審議会によって何重にもおこなわれ、チェックされることになる。このような評価システムは、政府・文部科学省による官僚統制をいっそう強めることにつながるであろう。

<廃れゆく学問>
 教育は百年の計といわれるが、教育の目標が五年というのはあまりにも短すぎる。学生を受け入れて送り出すまでに四年はかかるのである。長年にわたってこつこつとデータを積み重ねなければならない地道な研究や基礎的な研究は、五年で評価されるということになれば、次第に廃れていくであろう。効率性とは無縁な哲学や文学、歴史などの人文学科や、時の権力に批判的な社会科学も影をひそめ、大学のキャンパスから文化の薫りが消えていくことになるであろう。
 国立大学は、これまで、相対的に低れんな授業料(本来ならば、無償にすべき)によって高等教育の機会を国民に保障してきた。また、学術研究においても、国立大学は最先端の研究を担ってきただけではなく、国民の健康や福祉、環境、防災、教育など、幅広い視点からの学術研究を積み重ねてきた。地方の国立大学も、それぞれの地域の経済や産業、文化の発展、人材養成にも大きく貢献してきた。これらのことが可能であるのは、幅広い視野から、自由な発想のもとで学術研究がなされてきたからである。それが産業に直結する「科学技術」に偏重されるならば、大学としての存立基盤を掘り崩し、長い目でみれば、けっきょく学術研究の衰退をまねくことにならざるをえない。
 現在、改革が迫られているのは、高等教育機関だけではない。いびつな受験競争の弊害によって、学級崩壊、いじめなどに象徴されるように、日本の教育全体が病んでいるのである。その教育を二十一世紀に向けてどう立て直し、青少年にどう夢や希望をもたせるのかということが今日求められている。そのような視点を欠いたままに、効率化という教育研究とは相いれない論理によって、あまりにも拙速に国立大学を独法化することは、歴史に禍根を残すことになるであろう。
(いわさ しげる。一橋大学教授、哲学)



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