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「激震! 国立大学−独立行政法人化のゆくえ」より
国立大学および国立大学付属研究所の、学長、研究所長アンケート回答
(1999.10.28 未来社編集部)
以下に掲載するのは、国立大学および国立大学付属研究所の、学長、研究所長でいらっしゃる五十一名の先生方に宛ててお願いしたアンケートのうち、ご返事をいただいた5名様の回答です(到着順、敬称略)──編集部
1 制度としての独立行政法人について、どのように評価されていますか。
2 特例法による法人化という主張について、どのように評価されますか。
3 一般に、この独立行政法人をめぐる議論の進め方、情報の流れ方について、いかなる考えをお持ちですか。
4 国立大学が今後とる組織形態としては、独立行政法人化や、特例法による法人化以外に、そもそも国立大学のまま改革をめざすという選択肢など、他にもとるべき道の可能性はあまたあると考えられますが、いかなるものが最善であるとお考えですか。
5 この問題について、大学教員にいま求められているものは何であるとお考えですか。
以下、まったくの個人的見解である。
1 行革の必要性から、一方的に押し付けられ、大学にとって外圧による改革だとの声もあり事実だが、必ずしもこの面だけではあるまい。国民の側からも、国立大学に対し様々な批判がなされている。国立大学が自らの責任と権限をもって、二一世紀に向け新しい大学像を構築する契機となると前向きに考えることもできよう。
2 通則法の世界だけで、国立大学の独法化は不可能である。研究教育の遂行一つとっても、国立大学の役割・機能は、他の政府機関とは異なる。従って、特例法は独法化の前提条件。
3 政治主導によるだけに、議論のテンポが早すぎる。また文部省が従来の態度を変えたことも、一方的に報道されるだけである。これまで大学から発信する情報が、少なすぎると思う。これから各大学は本格的な議論をし、独法化の是非に関し、積極的に発言すべし。
4 経済社会の変化もふまえ、国立大学のあり方に対し、様々な改革の要求が広く国民、政府、あるいは企業から出されている。その改革の期待度、望ましい目標から判断し、現行の国立大学の枠にとどまる改革だけではもはや対応できないであろう。特例法による独法化も、これからの大学改革の選択肢の一つと考えるべき。
5 旧態依然たる意識を改革すること。
1 独立行政法人とは、一定の明確な目標を効率的に達成するため、事業を行う実施主体に、それにふさわしい法人格、言い換えれば権限と責任を与えるもので、中期的な展望に立って設置される場合が多い。従って、大学の恒常的な設置形態として、果たして妥当なものであるかどうか、率直に言って疑問は残る。しかし、教育公務員特例法はあるものの、単年度の予算・決算制度による財政管理、総定員法や人事院規則などによる人事管理などのため、研究教育活動を行う上での不都合は少なくなかっただけに、自由な活動の保証とそれにともなう自己責任の明確化によって、大学の活性化が促される可能性はある。
2 現在検討されている独立行政法人通則法は、あくまで国家公務員全体に関わる法案で、企画立案機能は国の管理下におき、実際の公的なサービスは各法人に委ねようという意図のもとで整備が行われてきている。このような考え方は、学問研究とその成果を教育活動に生かしてきた大学には、基本的には馴染むものではない。仮に法制化する場合には、大学の特性や役割に適合した特例法を制定し、長期的展望に立った大学の教育研究の活性化につながる管理運営体制を保証することが必要である。
3 今回の独立法人化問題は、基本的には行財政改革の一環であり、大学の活性化に向けた大学改革論議とは、本来は別個のものである。それが一体のものであるかのように報じられているのは、必ずしも適当ではない。制度改革によって現在の大学が抱えている問題が解決するかのような印象を与えることは、幻想であり、時としては危険ですらある。独立行政法人化の動きは、あくまで、真の大学改革を推進するための引き金に過ぎない。仮に国立大学が独立行政法人化されても、教職員の意識改革を含む抜本的な大学改革が行われなければ、国立大学の再生と発展はあり得ない。
4 何が最善であるかは分からないが、現行の制度を維持することは困難であると思う。現段階では、大学の使命遂行にふさわしい特例法(大学法)を整備することが一番望ましいと考える。その場合でも、自己責任の明確化は不可欠であり、それによってのみ、大学の自治は尊重されることを明記すべきである。自治を標榜する限り、大学は自由でなければならず、自由であるためには、少なくとも国による安定した財源保証は必要不可欠である。設置形態がどう変わろうとも、このことは心しておかなければならない。
5 今回の独立法人化の動きが、厳しい行財政事情への対応であることは疑い得ない。しかし、現在の国立大学の多くが、国のいわゆる護送船団方式によって、守られ、安住し、沈滞し、次第に活力と国際競争力を失ってきたことへの苛立ちと失望が、その根底にあることも事実である。このことを、われわれ国立大学教官は深く自覚し反省しなければならない。自らの地位に安住し、学問の自治という名目で、自らの自己保身的態度を合理化し、社会の動きや学外の期待に応えるための自己改革を怠ってきたという批判は、ことのほか厳しい。今求められているのは、言葉での弁明より、国際的な競争力に堪えられるだけの研究力と教育力を身につけ、大学の活力を取り戻すことが、これらの批判に対する正当な対応であろう。
1 独立行政法人制度の構想は、主として本省が政策の企画立案機能、外局・独立行政法人が実施機能を担当し、両者を組織的に分離してそれぞれの機能の効率化を図ろうとするもので、対象を誤らなければ、行革の観点か
らして大きな成果が期待されよう。
しかし、もともとこの構想や通則法は、大学や大学共同利用機関、さらに博物館・美術館などの国家として責務を負うべき文化施設を念頭に置いて考えられたものとは思えない。
結論的には、上記機関、特に教育研究機関としての大学に通則法を適用することは、全くなじまない、と考えている。
2 仮に通則法の枠内でしか、国立大学存続の道がないとするのであれば(すでに国大協第1常置委員会小委員会の報告として書いたように)、大学の理念や特質に照らして通則法の特例を定める法律(“大学独立行政法人特例法”仮称)を制定するとか、あるいは、独立行政法人制度をそれとして規定する通則法とは別に、独立行政法人化の対象として大学自身についてその理念や組織等を定める法律(“国立大学法”または“国立大学法人法”:仮称)を制定し、両者の規定相互間で調整を要する点に関しては、通則法の原則に必要な修正を加えるとかの、適切な立法措置がとられるべきである。
3 極めて遺憾であり、国の将来に対し深い憂慮と強い危機感を抱いている。それは、以下のような基本的な議論が抜け落ちたまま、行革の観点だけから、政治スケジュールに乗ってスキームだけが突っ走っているからである。
すなわち、国際社会の中で、五〇年、一〇〇年先の日本をいかなる国にするのか。「科学技術立国」を標榜しながら、“国としての”コンセプトも、明確で具体的な目標も見えない。日本を一流国にするのか、二〜三流国にするのか、本来なら、それによってまず、“高等教育研究はどうあるべきか”、“そのためにいかなる大学や研究機関がどの程度必要か”、“それらを実現するためには、国費として、例えばGNPの何%が投入されるべきか”が議論されるべきである。要するに、高等教育研究機関に関する戦略性をもった国策としての理念や計画、それを保障する基本的な法律が必要であるのに、これらが抜け落ちたまま、目先のスキームだけが進んでいる。日本の将来は大丈夫か、強い危機感を抱く所以である。
4 国立が最善と考える。ただし、“大学改革”と称しての、これまでの小手先の改変ではなく、真に自己改革を伴った上でのことである。
5 (いちいち具体的に挙げるのは省略するが)要するに、ぬるま湯から抜け出すための意識改革、研究はもちろん、教育に対する情熱、痛みを伴う組織改革への積極性、そして国民の目線で自分自身を見つめ直すこと。
1 いわゆる「通則法」の下での「独立行政法人」は、行政一般のスリム化、効率化を目的とした制度化をはかるもので、それなりに評価できる。
問題は、それは教育・研究を主たる任務とする大学という制度にはなじまないという点である。
2 特例法による法人化よりも、大学の理念に合致した内容を有する「国立大学設置基本法」(仮称)といった別の独立した法律による法人化を望む。
3 最も欠けている議論は、国立大学の理念ないしは国立大学のあるべき姿・未来像であり、その作業を最優先すべきである。とりわけ、「なぜ国立大学ではければならないのか」、「国立大学が担うべき教育・研究とはなにか」を議論し、そこから最もふさわしい設置形態を検討すべきである。
4 上の3の作業の先に見えてくるのではなかろうか。
5 教員のみならず、すべての大学人は、これまでの大学に対する社会の批判点を謙虚に受け入れ、新たな大学の構築作業に参加すべく、意識改革につとめること。
1 独立行政法人制度として、私が知っている内容は通則法です。通則法は業務の効率化を主眼として、主務大臣の中期目標の指示の下に業務を実施し、法人の長を主務大臣が任命する等、現在の国家財政の逼迫と行政改革
の動きの中で出てきたものであると理解しています。
学術や教育は、未来を見通した長期的展望の下に発展させるべきであり、学問の自由を基礎とした枠組みがなければ、次の世代を担う人材と世界をリードする学術は生まれません。
この点で、大学にはなじまない制度であると思います。
2 特例法による法人化の内容が不明ですが、日本の国立大学の今日までの歴史的総括の上で、次の世紀へ向けて学術研究、教育を充実させるための設置形態は議論する必要があると考えます。
現在の流れの中で、従来の国立大学の方向を単に守るための特例法による法人化の志向は、議論を混乱させるだけだと思います。
3 独立行政法人制度が先にあって、これに大学をはめ込む形での議論となっている点に危惧を感じています。明治以降の国立大学の果たした役割について、歴史的に総括した上で、我が国の未来を見通した国民的議論が必
要であり、これがなされていない点が将来に禍根を残すと心配しています。(私の考えを別紙に付記します)
4 組織形態は、現在の状況でそれぞれの持つ制約がどのようになるかで、どの選択肢を選ぶかが変わってくるので、最善は何かということは難しいと思います。
学問の自由が大学にとって基礎となることは、歴史の示すところです。学問の自由を基礎とした枠組みの下で、国際社会で果たす我が国の役割と、我が国の学術・教育の長期的な展望を中心とした、学術教育政策に基づい
た設置形態が必要です。この点では、上記の学術教育政策の国民的合意こそが大切で、それにふさわしい形態を模索すべきであると思います。
5 一、教育と学術研究を着実に進める中で、未来をつくる社会的役割を果たすための積極的な改革を進める一員となること。
二、自らの役割には社会的理解・評価を得ること。
(別紙)
現在、大学の個性化、活性化を目指して、大学の機能の再構築が、大学内外の多くの議論の中で、各大学において懸命に進められている。一方では、行財政改革の一環としての、国立大学の独立行政法人化の論議が急激に
動き始めている。この事態は、我が国の第三の大学改革であると位置づけられる。
第一の改革は、明治維新後の学制改革に始まる国立大学の設置であり、これによって、我が国の近代化を担う国家枢要の人材の養成と近代的学術の導入・発展に大きな役割を果たしたことは、歴史の示す通りである。
第二の改革は、戦後の学制改革による、新制大学の設置である。各県に国立大学が設置されたことがこの改革の大きな特徴である。この改革は、戦後の復興から今日までの我が国の発展を支える上で大きな役割を果たして
きた。すなわち、産業を支える高等教育を受けた多くの人材を供給してきたこと、優れた研究者の地方への分散が、我が国の文化、科学、技術等に関する学術研究の広い視野を形成したこと、他方国立大学が、地方の学術、
文化、教育の発展と普及、産業や医療等の振興に大きく貢献したことが挙げられる。上記の内、最後に述べた、地方国立大学が果たしてきた役割は、現在の第三の改革の論議の中で、あまり触れられていない事柄であるが、それぞれの地方で存在する地方国立大学が消えたことを想像すれば、その役割の大きさを理解できると思う。
今、第三の大学改革に進むにあたって、現在の国立大学が多くの問題点を持っていることは率直に認めなければならない。二〇世紀の科学技術の発展を基盤として成長してきた社会構造、産業構造は、地球環境問題をはじめとする様々な課題に直面し、経済、産業のグローバル化の中で大きく形を変えようとしている。このような中で、我が国の未来に対する不透明感、出口の見えない閉塞感が社会を覆っている。この現状を招来した責任の一端が、未来を見通し、未来を先導する提言を発信すべき大学の、これまでの自主的、主体的取り組みの不足にあることは否めない事実である。また、国立大学が、いわゆる、護送船団方式の中で、個性化より画一化の方向を持ち、その社会的意義を説明する努力を十分に果たさず、大学を社会に見えにくくしてきたことも、活力を失ってきた一因である。
我が国の国力を高め、次の世代を育てるためには、これらの反省の上に立った、大学の再構築と活性化が極めて重要である。日本の未来を創るための改革の視点は、世界に通用する学術の再構築、地球的課題の中で持続的発展が可能な社会の再構築、自律的な地域社会や文化の創生と、これを支える人材の育成である。我が国の大学が、このために、どのように個性化を図り、その社会的意義と役割を説明し、社会の評価を受け、支持を得てい
くかが現在の大学改革の中で問われている。
この大学改革において、大学の個性化を図り、教育研究の不断の改善を通して教育研究の質を向上し、社会の期待に応える活性化に果敢に務めることが国立大学に課せられた責務である。この出発点は、第二の改革の否定
ではなく、この改革で国立大学が果たしてきた役割の確認の上に立つものでなければ、歴史的評価を得る改革とはなり得ない。すなわち、この改革で形成された学術研究の広い裾野を、世界最高水準の研究拠点の形成や持続
的発展が可能な社会の構築につなげること、地域に定着した大学を自律的な地域社会や文化の創生につなげること、社会人再教育も含めて高等教育による人材の能力開発に務めることを改革の出発点としなければならない。
急激に変化するこの時代にあって、価値観が大きく揺らぐ中でこそ、歴史の流れを見据えた改革が必要である。
国立大学の設置形態は、このような改革の視点に立って、多様な個性的な活動を進めることを可能にする設置形態であることが重要である。設置形態の議論においては、上記の、この改革の出発点を基本として、各大学が長期的な教育研究の方向を自主的に決定し、自律的な管理運営をする中で、社会に対して、自らの社会的意義を説明し、評価を受ける、競争的環境の下で自らを磨いていくことを保障するものでなければならない。
また、上に述べた国立大学が果たすべき役割の重要性に鑑み、先進諸国に引けを取らない財政上の保障を順次進めていくことが特に重要である。このためには、大学がその役割を果たすために、国民の資産をどれだけつぎ込む必要があるかを中心とした国民的議論が喚起されることが何にも増して重要であり、文部省をはじめ各大学がそのための積極的な説明を進め、国民に理解を求める努力が必要である。この努力の成否が、第三の改革の成否を大きく左右する。
国立大学の改革が、歴史に残る大学改革となることを心から願っている。