フォーラム

 東大改革<No.18 1999年7月21日>

東大改革 東職特別委員会

〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学職員組合

 TEL/FAX 03-3813-1565 E-mailアドレス:bh5t-ssk@asahi-net.or.jp


国立大学の独立行政法人化に断固たる拒否を!

−「ジュリスト」藤田論文批判−


1.はじめに

 「ジュリスト」99年6月1日号に、東北大学法学部藤田宙靖教授の論文「国立大学と独立行政法人制度」が掲載された。この論文は、瞬く間に全国の大学に遍く行き渡るに至った。この論文を読むと、あたかも"国立大学の独立行政法人化は、もはややむなし"と観念させるかのような印象を人は与えられる。「ジュリスト」という法学の専門誌に掲載された行政法学者の学術論文であること、独立行政法人制度の制度設計者自身が筆を執っていることが、大きな説得力を生んでいる。7月8日、省庁改革関連法が国会で成立し、独立行政法人通則法も成立した現在、この論文の影響力は一層広がる可能性を持っている。

 この論文は学術論文の体裁を取りながら、実は極めて政治的意図に満ちたものである。著名な行政法学者として知られ、行政改革会議の委員であり、現在も中央省庁等改革推進本部の顧問を務めるである藤田氏は、省庁再編計画と独立行政法人制度の創設に中心的役割を果たした。その藤田氏は、独立行政法人化やむなしと強調する。ところが、子細に検討すると様々な問題点が浮かび上がり、氏の論議、氏自身の言葉から、独立行政法人制度が、いかにいい加減な制度であり、大学には全く不適切な制度であるかも判明する。

 藤田論文は、「国立大学の独立行政法人化に対する現下の政治的圧力を充分に認識しなければならない」と圧力をかけるテコとして登場した。国立大学の独立行政法人化問題は、99年1月26日の「中央省庁等改革に係る大綱」で、「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、2003年までに結論を得る」とされていた。その可否自体を時間を掛けて検討できることになっていたわけである。ところが、藤田論文発表を前後して、にわかに、来年6、7月までには結論を出す、いや、独立行政法人化せざるを得ない、と言う雰囲気が一気に形成されようとしている。時期的にも、6月15、16両日開催された国立大学協会の総会、翌17日の国立大学学長会議というタイミングに合わせて、これが出された事も、きな臭さを感じる。実際、国大協総会後、この論文は、いたるところで、そのコピーが配られた。各部局の教授会での配付は勿論、ところによっては職員一人一人にまで、配付され、回覧されている。つまり、全国の大学の教職員を独立行政法人やむなしと"オルグ"するための強力な武器としてこの論文は使われている。

 この論文で藤田氏が言わんとしていることは、平たく言えば、次のことに尽きる。「大学は、独立行政法人に移行することを2000年の7月迄には決めなければならない。四囲の政治的状況は、それ以外の選択を許さない状況だ。観念するしかない。確かに、独立行政法人の通則法では、大学は大学ではなくなる。しかし、個別法があって、それで、何とか今の大学と同じような運営が可能になる。それに、独立行政法人になれば、定員削減から免れる。このまま国立大学のままだと、厳しい定員削減が襲い掛かる。」

 以下、この藤田論文の状況認識が誤りであり、「個別法で生き残る」ことは幻想にすぎないことを、やや詳細に検討し、批判していきたい。

 

2.2000年7月タイムリミット論の陥穽

 25%であれ、20%であれ、定員削減は決まったもので、変えることも、拒否することもできないという態度を捨てるべきである。大学の命運がかかった事柄である。拒否することで状況を変えるべきである。

 藤田氏の主張では、もはや一刻の遅滞も許されず、2000年7月までには結論を出さねばならないことになっている。時間がない理由は、要約すれば、以下のようになる。

 国家公務員の20%定員削減を、2001年から10年間で実施する。(ちなみに、藤田論文では定員削減は「20%」であって「25%」ではない。25%定員削減は、1月の「中央省庁等改革に係る大綱」で謳われ、7月8日の省庁改革関連法の成立時の国会の付帯決議でも謳われているが、なお政府の正規の政策としては具体化されてはいないのであろう)この際、10%は定員削減で、残る10%は独立行政法人化で達成する。定員削減の母数となる数には、公務員から独立行政法人に移行した数は除かれる。また、現在の国家公務員総数に占める国立大学職員の割合を考えると、国立大学の独立行政法人化の可否に触れずに、この問題を解決することは殆ど不可能である。従って、国立大学を独立行政法人化するか否かについての結論を(しかも積極的な方向で)出すことが強力に求められる。

 つまり、2001年からの定員削減の実施のためには、2000年7月の概算要求時までには、結論を出せ、という形でタイムリミットを設定するのである。

 果たしてそうだろうか?

 第一、このような状況設定自体が問題である。

 これは一種の罠である。時間がない。大勢は決まった。本質論議のような悠長なことをしていられない。通則法はともかく、個別法で何とか身を守る算段をすべきだ。もう個別の法技術的議論しか残されていない。こういった議論に誘い込むための巧妙な罠が、藤田論文には仕掛けられている。先行する、国立研究機関が独立行政法人化やむなしの陥穽に落ち込んでいったと同じ道がここに用意されている。我々は前車の覆るを後車の戒めとしなければならない。

 第二に、そもそも、こんな乱暴な話があっていいものか、という疑問がある。

 10年間で25%の定員を削減する根拠は、どこにあるのか?これには確たる根拠とそれによる影響にどう対処するかが示されているだろうか?例えば、当初10年間で10%の定員削減が言われていた。ところが、これが98年8月の小渕内閣の成立に伴う首相施政方針演説で10%嵩上げされ20%になった。これが更に、99年1月の自民党と自由党との連立政権樹立に伴う政策合意で、更に5%嵩上げされ25%になった。これらの数字は何を根拠として出されているのか殆どの人は知らない。定かでないのだ。政府財政が赤字国債の増発で破綻状態であるから、と言うだけの理由では曖昧に過ぎる。ともかくも減量を、ということしかないのではないか。定員を削減することが自己目的化し、その結果、国立大学が切り捨てられようとしている、と言うのが真相ではないか。大学が社会で担うべき役割についての先の見通しを立てた議論抜きで、ただ闇雲な減量のターゲットにされ、切り捨てられていいものか。我々は、25%定員削減を所与の前提としてやむなしとすることはやめなくてはならない。その根拠とそれに伴う結果について問うべきである。

 第三に、これと同列のことだが、今回の事態のうさん臭さである。

 昨日までは、「2003年までに」と言っていたのが、今日は突然「2000年7月までに」になってしまう。以前は、独行法人化の可否は今後の検討事項だったのが、今回は、もはや選択肢なし、という形勢である。本質論に関する議論の時間も与えず、ひたすら独立行政法人へと追いやるやり方自体の危うさである。事はかりそめにも一国の大学システムという大事である。どうでもいい事柄ではあり得ない。成り行きによっては、社会の衰亡につながる。

 第四に、何故大学がという疑問である。

 藤田氏は、国立大学の職員数の多さから、大学の独行法人化なしでは、定員削減の目標は達成不可能とする。しかし、本当だろうか? 7月8日成立した省庁改革関連法により、2001年から独立行政法人化するのは89機関、7万4000人とされている。ところで、藤田氏の論文でも紹介されているように、定員削減の母数となる国家公務員定員は、自衛官26万7千人と2006年度から郵政公社に移行する郵政事業職員30万1千人を除くと、約54万8千人である。これを母数にして25%定員削減すると仮定すれば、13万7千人の削減が必要となる。7万4千人は削減母数の13.5%であり、今仮に、25%定員削減方針を、10%の定員削減と15%を独立行政法人化で達成するとしたら、残る1.5%は8200人であり、数で言えばほぼ東大一校分で済む。およそ国立大学全体を巻き込む議論にはならない。国立大学全体を検討の対象にしたとしても、本来の方針のように2003年までに結論を出しても遅くはない筈である。にもかかわらず何故国立大学全体が、独立行政法人化の対象として設定されるのか? 大いに疑問である。


 具体的検討のために、ちょっとした計算をしてみよう。もし、国立大学12万5千人全てを独行法人化すれば22.8%、既に決まったとされる7万4千人、13.5%と併せて、19万9千人、36.3%と25%の目標を超えてしまう。国立大学のうち6万3千人、11.5%が独行法人化するだけでも、併せて13万7千人で、25%に達する。つまり、国立大学の半数程度の独行法人化で25%定員削減は達成でき、この結果、省庁本体は一切の定員削減をせずに済むという計算が成り立つ。声高に国立大学の独行法人化が語られる背景には、このような策略が存在するのではないか?つまり、省庁本体の生き残りのために、大学はスケープ・ゴートにされようとさえ疑える。よく見ると、独立行政法人の対象の殆どが、大学、研究機関、博物館、美術館、病院であるのは、いかなることなのか?実は、更に進んで、定員削減をあたかも至上命令とすることで、一切の議論抜きで長らく懸案であった国立大学などの設置形態問題に一挙にケリをつけようという政治的たくらみではないのか?


 第五に、この定員削減・減量化を進める政策の基底にある思想の問題である。

 「来年7月がタイムリミット」と声高に主張されることの背後には、単なる定員削減計画の具体的数字の確定という技術的なことではない、より深い政策的意図が見える。独立行政法人制度は周知のようにイギリスのエージェンシーにその制度的示唆を得たものである。政策の基底には、新自由主義の考えがある。イギリスのサッチャー首相が79年以来展開した政策の基にある思想である。97年12月の行政改革会議の最終報告でも謳われたように、「国の事務・事業は、民間でできるものは民間に委ねる。市場原理と自己責任原則にのっとり、民間活動の補完に徹する」ことを基本にし、市場原理に万能の力を認め、「政府の基本的任務を防衛と治安の維持に限定」する態度がこれである(長谷部恭男「独立行政法人」『ジュリスト』98.5.1)。藤田氏自身も、「官がどうしてもやらなければならないサーヴィス以外のサーヴィスからは、官は撤退する」と、このことを明言している。そうして、大学や、研究所や、博物館や、美術館は、官がやるべきことではない、民間でやるべきだ、ということが、この思想の中では位置づけられ、その政策化が、独立行政法人になる。従って、論理の赴くところ、今は独立行政法人だが、次は民営化にあることは想像に難くない。どこまでも撤退するであろう。もとより、我々は万能の国家を欲しない。しかし、社会の公共的機能を政府が保障すべきことを欲する。文化、高等教育、学問研究、医療等々の社会の機能の基底を支え、形成する役割から国家の責任と負担を解除する思考には与することはできない。「官」が公共の社会的機能を果たすのならば、なお、「官には独自の存在意義」が存在する。「万物が営利の精神で満たされる」べきではない。

 

3.極度に矛盾した不可解きわまりない独立行政法人の制度設計

 独立行政法人は、藤田氏自身、「この制度の設計内容そしてその存在意義についてはいささか分かり難いものがある」と何度も書かざるを得ないほど理解に苦しむ制度。さらに、政治的妥協により、本来の目的である「実施機能の分離による業務の効率化」になじまない分野が法人化の対象となった。成立した制度そのものが根本的な矛盾をはらむ。

 藤田氏が、このように強引に推し進めようとする、「独立行政法人」とは一体どのようなものか、藤田論文を基に、簡単に見てみよう。

 本来想定されていた制度設計は、イギリスのエージェンシーにその起源を持つものであった。その基本は、企画立案機能と実施機能を分離し、行政機関の減量・人員の減量(従って職員は非公務員)、財政負担の減量のための独立採算制の採用、業務の効率化が目指されていた。ところが、当初の設計は具体化の過程で大きく曲げられた。最も肝腎の「実施機能の分離」が、「公権力の行使に当たる業務等は原則的に不適当」として排除され、徴税事務、許認可事務、登記登録事務等も外れてしまった。その代わりに、「本来民営の形でも行ない得なくはないもの」が対象となり、結局、殆どが省庁の研究所、国立病院、診療所、博物館、美術館、そして国立大学がその対象になった。対象とされた機関の多くは、本来の意味での行政機関ではなく、それとは相対的に独立しており、元々「企画立案機能」と「実施機能」の分離の対象ではない。およそ「実施機能の分離」とは全く次元の異なる領域に「独立行政法人」制度は適用されることになった。

 更に、当初の制度設計の理念と異なり、法人の職員は公務員型も可能となり、独行法人化することになるものの実に99%は公務員型となった。また、独立採算制は、企業会計原則を適用するものの、「一般的には独立採算制を原則とするものではない」と後退し、財源は国が措置することとなった。

 このように独立行政法人制度は、イギリスのエージェンシーとは似て非なるものである。藤田氏によれば、「日本版のエージェンシー」ではなく、「改良型の特殊法人」と言うべきものとなる。かくて、独立行政法人は、国家行政組織内部での業務の効率化を図るために、下部組織に大幅な自由を与える、という意味でのエージェンシーではない。

 また、独立行政法人制度の運営原則に、「実施機能の分離」に伴う3ー5年の中期目標、中期計画、年度毎の評価、中期計画終了後の評価とそれに基づく業務の改廃勧告など、業務の効率化を図る機構を採用したため、一層大きな矛盾が生じることになった。本来そのような運営にはなじまない組織である大学、研究機関、博物館、美術館、病院に、このような方法を適用する無理については、藤田氏も認めざるを得ず、「効率性」の概念の意味転換を図るほかなくなる。「独立の法人格が与えられること自体による効率性が第一義的」、「国家行政組織に属することに伴う様々な制約から解放される」、これによる「組織構成、人事、業務運営、財政等における自由度の増大」、或いは、「合理性」、即ち、「本来の目的に照らし、より良き成果を挙げることができる」等々と言い換える。

 このように、典型的な例で言えば、登記や検査業務のような大量反復型の業務を主務官庁の直接的統制から外し、下部機関に委ね、大幅な裁量権を与え、効率的な行政事務を遂行するという本来の目的は消えうせ、代りに、「実施機能の分離」の制度設計を、元来「実施機能」とは別次元の機関に適用するという根本的矛盾を、独立行政法人制度は持たされてしまった。しかも、これに「実施機能」の効率化のシステムを適用するから、矛盾の上に矛盾を重ねた、何がなんだか分からない、不可解極まりない制度になる。出発点から、間違ったシステムである。

 何故このような誤りに誤りを重ねた制度が導入されたか。藤田氏は率直にこう述べている。『「独立の法人格を与えること」自体が重要な目的であるから、と答える以外にはない』と。こうして、詰まるところ、独立行政法人制度の導入は、減量、つまり、切り捨てにある事が明瞭になる。従って、この制度の行き着く先には、民営化あるいは廃止が待ち構えている。

 

4.独立行政法人通則法の規定では大学は大学でなくなる

 7月8日成立した独立行政法人通則法での規定は、大学の研究と教育機能を自由に展開することを目指すものでは全くない。むしろ、より中央省庁(文部科学省)に拘束され、監視と統制が強まる事は不可避である。

 通則法の主な条文を見ると以下の如くである。

 主務大臣による法人の長(学長)と監事の任命、法人の長によるその他の役員の任免、主務大臣による3〜5年の中期目標の設定、指示と変更、中期計画の主務大臣による認可、主務大臣による中期計画の変更命令、年度計画の届け出、年度毎の評価委員会による評価、評価委員会による改善勧告、中期目標期間終了後の事業報告書の主務大臣への提出、評価委員会による業務実績評価、中期目標終了時の主務大臣による業務の継続の必要性、組織の在り方の検討と所要の措置、審議会による事業の改廃に関する主務大臣への勧告、総務省の評価委員会による改廃勧告、企業会計原則による会計、財務諸表の作成、主務大臣による違法行為等に対する是正措置の実施、そして、一貫して貫かれる効率化と成績主義的運営。

 これらのどこに、大学の教育と研究を発展させるべき契機が含まれているだろうか。凡そ高等教育や研究の分野には本質的に適合せず、むしろ破壊的に作用する仕組みであることは疑いようもない。自由の代りに統制を、のびやかな時間の代りに効率を持ち込む。通則法下の大学は、中央省庁の支配する、トップダウン的企業体へと転換する。今在る、原理的には、教育と研究における教官個々人の平等性に基づくアカデミック・コミュニティーは解体され、アカデミック・ビジネスへと変質する。上下の指揮命令関係を持つ階層的組織、目標・計画設定、効率的遂行、業績評価、評価に基づく組織の改廃が、その諸特徴をなす。知の自立、学の独立、大学の自治、学問の自由等々の原則は、単なる御題目ではない。大学という組織に取って不可欠な空気の如きものである。それなくして、なお大学が創造的精神の空間として存在し続けることはあり得ない。通則法下に置かれた大学には、死に絶える以外の道は残されていない。

 しかも、事は国立大学の命運が絶たれることでは収まらず、累は、公立大学にも、私立大学にも及ぶ。国立大学のモデルは、当然にも全てに及ぶだろうからである。国立大学の独立行政法人化政策は、大学の解体政策と同類である。

 

5.個別法での自由度拡大論は幻想に過ぎない

 通則法の基本規定は個別法では変えられない。藤田氏の議論をよく検討すれば、現状程度の大学の自由度を維持することさえ困難なことは明らか。

 だから、藤田氏も、通則法に規定された仕組みを、個別の独立行政法人の設置法(個別法)で変えよと主張せざるを得ない。藤田氏とても通則法の大学への適用は不可と断ずるほかないのである。

 藤田氏が通則法に関して、現行の大学の自由に関わる問題点として挙げた学長を含めた教官人事の独立性、主務大臣による中期計画の認可・変更命令、違法行為等への業務是正命令、評価委員会制度、「効率性」観念、中期目標、中期計画は、全て独立行政法人制度の骨格をなす事柄に関わり、通則法で規定されている。

 この中で、藤田氏が明確に述べているのは、学長を含む教官人事の独立性確保のために、教育公務員特例法の適用を求めることだけである。他の通則法の規定については、「独立行政法人の業務運営における自主性は、十分配慮されなければならない」との通則法3条3項の精神規定の趣旨が最大限尊重さるべきだと言う主張に尽きる。運用に当たって慎重であるべきことや、効率性観念を経済的効率性だけで考えるのではなく、大学の目的をより合理的に達成することと読み替えて考えろ、というわけである。「評価委員会制度」に至っては、むしろ、外部の第三者による評価システムの導入の構築との関連で、大学審答申の法制化の結果今後設置されることになる「運営諮問会議」をそれに当てることを示唆し、評価委員会による年次評価や、中期計画終了後の改廃勧告などの措置については触れるところがない。

 こうしてみると、藤田氏の議論でも、通則法の規定を個別法で変え、少なくとも現状程度の大学の自由度を維持することさえ困難なことは明らかである。

 そもそも、藤田氏は、通則法は、一応の基準を定めるものであるに過ぎず、個別法では、その分野の特殊性に鑑み、通則法に定められた内容と異なる定めをすることもあり得るので、大学は、どこをどう変えれば大学についても、この制度を採用することが可能であるかを検討する必要があると力説される。そして、「仮にこの前提条件が充たされないのであるとすれば、独立行政法人という制度は、国立大学には、その性質上ふさわしくない制度であると結論せざるを得なくなるであろう」と断じている。

 藤田氏の言うところによれば、通則法と個別法の関係には二様の解釈がある。一つは、ごく当然なものだが、通則法は個別法の確固たる外枠を定めるもので、個別法はその枠内で、通則法で詳細に定めきれない事項について、各分野ごとに補足的に定めるに過ぎないものというものである。もう一つは、藤田氏が推奨する解釈で、個別法はその分野の特殊性に鑑み、通則法で定められた内容と異なる定めをすることが可能、と言うものである。藤田氏は、「私自身は、行政改革会議における議論にあってはむしろ後者の考え方が前提とされていたものと考えている。」と強く主張し、これが可能であるかのように言う。確かに、個別法で通則法の条項を適用除外することは、立法者の立法意志によっては、不可能ではないとも言える。しかし、既に成立した独立行政法人通則法を見る限り、この可能性はほぼないと言ってよい。

 独立行政法人制度は、通則法と個別法が一体となって規定されている。通則法が、「独立行政法人の運営の基本その他の制度の基本となる共通事項を定め」、個別法は、「各独立行政法人の名称、目的、業務の範囲等に関する事項を定める」(通則法1条1項)。「各独立行政法人の組織、運営及び管理については、個別法に定めるもののほか、」は通則法の定めるところによる(通則法1条2項)。これを見ても、通則法が共通事項を定めており、この規制力は強い。個別法が定めるのは、名称、目的、事務所の地、政府の出資、設立手続、役員・長の名称、定数、職務・権限、任期、業務の範囲、積立金の処分、長期借入金・債券の発行、主務大臣・主務省の指定などに限られる。

 独立行政法人のエッセンスをなす、中期目標の決定、中期計画の認可、変更命令、年度計画、年次評価、事業報告書提出、評価委員会の評価、中期計画終了時の主務大臣の検討と措置、総務省評価委員会による改廃勧告、企業会計原則などは、個別法によっては触れることはできない。これらは、通則法に「○○については個別法で定める」という規定がなく、また98年6月制定の中央省庁等改革基本法で規定された基本原則である。藤田氏が期待するような個別法によるこれらの規定の改定は不可能と言うべきである。せいぜいで、藤田氏が唯一依りかかる、通則法3条3項の精神規定を強調し、運用面での緩和を図ることができるかどうかと言う次元の問題である。結局、大学への適用を考えれば、通則法を根本から変えるしか方法はない。この点は、佐々木毅法学部長が、「通則法を抜本的に改める」ことを主張している通りである(「東京新聞」99年7月11日)。

 結局、大学が必要とする自由度拡大どころか、現状維持すらできない。藤田氏が問題点の第一に挙げた教官人事の独立性は、個々の教官の採用から、学部長、学長の選出など、教授会の自治によっているが、これすら確保できるかどうか不明である。まして、切実に必要とされる財政自主権の確立や事務機構に対する大学の人事権の確保などは、主務省と主務大臣の監督権限の強化の下では、極めて困難であろう。せいぜいで、財源の使途が自由になり、残額の次年度繰越が可能になるくらいにとどまる。

 独立行政法人制度を国立大学に適用すべきでないのである。

 

6.国立大学の独立行政法人化を阻止するために

 独立行政法人化は、日本の高等教育を破壊しかねない愚策である。我々は、国立大学の独立行政法人化に断固たる否を叫ばねばならない。国立大学、国立研究機関、博物館、美術館、国立病院は社会の資金で保持すべきものである。文化、学問研究、次代の人材養成、医療等々を、社会の公共的事業として保持できなくなれば、やがては"亡国"に至る大事である。

 職員の労働条件という観点でも、成績主義の導入による一層の競争と労働条件の低下、身分の不安定化は見過ごすことのできない重大問題である。

 東京大学はこの愚策に対し、明確な拒否の姿勢を鮮明にすべきである。政治的圧力が強いからとか、政府の財政事情が深刻だから等を口実に独立行政法人化を受け入れることは、断じてあってはならない。

 東京大学が99年6月7日付けで出した「東京大学の経営に関する懇談会中間報告」は、「独立行政法人制度も、(中略)中期目標の設定、中期計画の認可、成果の評価など大学の組織体制に相応しくない点を改め得るとの前提のもとで、(中略)組織体制の一つあり方としては検討に値するものと考える。」と述べているが、この認識は、藤田氏が勧める個別法での自由度拡大論の幻想と同根の誤りを犯している。東京大学は、このような誤った認識を払拭し、きっぱりと独立行政法人化を拒否すべきである。目先の利害にとらわれて、大道を見失ってはならない。

 6月15〜16日の国大協総会では、独立行政法人問題の検討を第1常置委員会で行うことを決定したが、国大協は日本の大学制度全体の命運に関わることとして、明確な拒否の態度を貫くべきである。

 我々に課せられているのは、未来に対する責任である。


「参考」<<独立行政法人化によって大学に生じる事態>>

 通則法に規定された大学では、現在のアカデミック・コミュニティーが解体されることは先に述べた通りである。文部科学省による官僚的統制は一挙に強まり、大学は、文部科学省を「企画立案機関」とする「実施機関」に転化する。大学の自治的運営は解体され、上から下への組織化が行われる。財政の国家管理と評価委員会制度が連動して、統制と監督は今より飛躍的に強まるにとどまらず、政府の大学への財政支出も減量することは不可避だから、少ないパイを巡る一層熾烈な競争を強いられる。上から下への階層化と、個々人のラットレースが激化する。既に同様な事態が先行するイギリスやニュージーランドやカナダなどで、研究機関の基礎研究や長期にわたる研究が壊滅的な打撃を受けた先例に我々は接している。悲惨というほかない。このままでは大学の絞殺が強行されることになる。

 留意すべき点は、98年大学審答申に基づく、本年5月の国立学校設置法などの改正により、既に同様なシステムへの道が敷かれつつあることである。大学評価機関の設置、評価に基づく予算配分、学外者による運営諮問会議設置、学長権限の強化、教授会権限の縮小などにより、国家の政策に対応するトップダウン型の運営の道は用意されつつある。この次に用意されているのが、独立行政法人だと言って過言ではない。

 第二に、一層の減量の促進である。

 独行法人化によって、大学は定員削減から逃れられるだろうか?藤田氏は、「国立大学が、現在のような国の直営の形で残る限り、正面から定員削減計画の対象となる。他方、独立行政法人化した場合には、当面その対象からは外れる」と主張している。しかし、これはあり得ない。

 何故なら、そもそも、独立行政法人化政策は、減量=定員削減の一形態であることは、先に見た通りである。最初に25%定員削減ありきであった。ところで、本来、独立行政法人制度が目指したのは、職員の減量であり、職員は必然的に非公務員であった。しかし、実際は99%が公務員型となってしまった。これでは、所期の目的は果たせない。何ら減量にならないのである。従って、実質的な減量が求められ、25%定員削減は独立行政法人にも適用されずにはすまない。いや、むしろ、独行法人では、定員管理は当該法人の判断に委ねられており、より柔軟な対応が可能なため、削減は国の機関より容易である。年次評価、3〜5年ごとの中期計画の評価制度によって、よりドラスチックな減量が可能になる。

 第三に、職員給与の成績主義の徹底と身分の不安定化である。

 独立行政法人の職員の給与は、国家公務員の給与や民間企業の給与などのほかに、法人の業務実績、職員の能率、勤務成績に基づいて決めることになる。つまり、成績主義が原則となり、個々人の競争を促がされ、全体としての労働条件は切り下げられる。公務員型の場合、労働3権のうち、団結権、団体交渉権(労働協約締結権を含む)は認められるが、ストライキ権は認められない。3〜5年の中期目標終了後の評価に伴う改廃措置が規定されており、職員の身分は不安定になる。

 第四に、大学の種別化が進められる。

 98年大学審議会答申によれば、大学は、研究大学、高度職業大学、教養教育大学、地域生涯教育大学の4種に種別化することをもって「個性化」されることになっている。独行法人化をテコに文部省はこれを一挙に進めるであろう。6月15、16日の国大協総会と平行して行われた国立大学事務局長会議で、文部省は、来年6〜7月までに、どの大学が独行法人化し、どの大学が残るかを区分する、と説明したと伝えられる。例えば、大学院重点化終了大学のみを研究大学として移行するとか、その逆に教養教育大学を移行するとか、等々、国立大学を分断し、再編する好機としてこれが利用される恐れは強い。"去るも地獄、残るも地獄"の状況に陥る。

 第五に、私立大学、公立大学も含めた大学切り捨て政策が進む

 大学に国費を投じない、或いは、でき得る限り減少することが政策の原則となり、私立大学にも、公立大学にも、同じ論理が貫徹される。高等教育全般への公費支出が減り、大きな打撃を与えることになるのは不可避である。

―ご意見・投稿は―

〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 

東京大学職員組合

TEL/FAX03-3813-1565 E-MAIL:bh5t-ssk@asahi-net.or.jp

戻る