『しんぶん赤旗』2007年6月13日、14日付

国立大学法人化その後
池内了


運営費交付金の減額と競争的資金導入

格差広がり貧困にあえぐ

二〇〇四年に国立大学が一斉に法人化された。一大学一法人で、各大学が独立した法人格を得て大学運営に自主的裁量が利く自由度が確保されると期待した向きもあった。ところが、それから三年あまりが経過した現在、国立大学のほとんどは青息吐息の状態にある。いわば、弓が極限にまで曲げられているのと同じ状態で、まだ今のところなんとか凌(しの)いでいるが、ひと突きあれば簡単に折れてしまいかねない状況にあると言えるのだ。

財政的な措置で国立大減らし?

その最大の原因は、運営費交付金として国から支給される経常予算が毎年1%ずつ(国立大学病院は3%ずつ)減額されていることにある。 運営費交付金の60%以上(大学によっては80%)は教職員の給与であり、大学運営のための共通経費を引き去れば、教員の経常研究費や学生のための教育費は雀(すずめ)の涙しか残らない。その結果、非常勤講師を削減して教員の講義負担を増やし、学生の実験経費を削るしかなくなっている。科学技術創造立国の旗を立てて大盤振る舞いをしながら、研究の実体を担う大学はむしろ貧困化にあえいでいるのが実情なのである。

その端的な理由は、「競争的資金」と呼ぶ運営費交付金以外の、申請に基づく予算の急増にある。いわゆる科学研究費補助金は従来からあって経常研究費を補う役割を果たしてきたが、それ以外に研究拠点形成のためのグローバルCOE(中核的研究拠点、これまでは二十一世紀COEと呼んでいた)、特別教育研究費、大学院教育支援経費、学部教育充実のためのGP(すぐれた取り組み)、留学生支援経費、社会人であった人への再チャレンジ教育支援経費など、実に多くの名目で競争的資金の公募が行われている。ところが、それらの多くは旧帝大をはじめとする大大学に有利で、地方の小さい大学や単科大学への配分は極めて少ない。実際、大大学では運営費交付金の減額を上回る競争的資金を獲得している。「競争」という言葉がつくのなら対等な条件で競わせなければならないのだが、実態は初めから大学間格差があってそれをいっそう拡大しているだけなのである。

最近、経済財政諮問会議で、運営費交付金も競争的資金の獲得率に比例して配分すべきという意見が出された。もしそれが実行されると、上位十校は大幅な予算増にはなるが、過半数の大学は経常研究費が大幅に減額され、もはや倒産するしかなくなってしまうだろう。つまり、政府は国立大学の数を財政措置によって減らそうと意図しているとしか思えないのだ。正面切って国立大学を減らそうという議論を持ち出せば国民の反対も強いから、財政で締め上げて(競争的資金の獲得率が低いから自業自得だとして)目的を達成しようとしているかに見える。

このように法人化以後、大学予算が逼迫(ひっぱく)するようになった上に、教職員はいっそう多忙を極めるようになってしまった。競争的資金を獲得せんがために実に多くの書類を準備しなければならないからだ。

研究時間つぶす「評価漬け」強要

さらに、膨大な自己評価の作業がある。国民の税金で賄われているから説明責任があるとして、投入された予算が教育研究のために正当に使われているか、大学の管理運営が効率的に行われているか、それらの質が年々向上しているか、についての自己評価書を毎年提出しなければならないのだ。その上、六年間の中期目標・中期計画の達成度評価が(まだ法人化して四年しか経過していないのに)来年行われることになり、 そのための膨大な書類を作成しなければならない。また、七年に一回認証評価が行われ、大学として教育研究の水準を確保しているかの評価にも対応しなければならない。(これは、文部科学省が大学設置の条件を甘くし、設立後の状態で判断するという方針を採ったためで、その結果少子化時代というのにむしろ数多くの大学が認可されている)

むろん、国立大学が国民に対して説明責任があることは認めるが、果たしてこのような「評価漬け」とまで言いうるまで評価を強要することに意味があるのだろうか。各大学では、評価に対応するために評価課や評価室をおいて事務職員を配置し、評価担当の教員を張り付けており、 それらを積分すると全大学の人件費だけで一年で百億円は費やしていると推算できる。そして教員の多くは研究時間を食いつぶされているのである。国の評価が果たしている「負の評価」も評価しなければならないだろう。

教育権保障する国の役割放棄

「研究力」低下の不安

今国立大学は貧困化と多忙化に追い回されている。大学に経済論理を貫徹させ、企業と同じ成果主義を求めているからだ。その結果、ゆっくり時間が流れる中で大きな構想を持って長期的に研究を発展させるという理想の大学像は夢のまた夢になってしまった。

ノーベル賞研究経常研究費が力

これが今後の日本に何をもたらすのだろうか。まず言えることは、目先の成果にとらわれて小手先の仕事に明け暮れ、稀有(けう)壮大な研究成果が出なくなってしまうことだ。論文を書かねば競争的資金が得られず、研究資金がなければ研究そのものが実施できない、ならば手っ取り早く結果が得られるテーマを追いかけよう、ということになってしまうのだ。ノーベル賞を得た白川、野依、田中の各氏の仕事が、競争的資金ではなく、少額だが毎年保証されていた経常研究費で行われたものであり、それによって時間を積み上げた研究が可能になったことを思い出す必要がある。多くの地味な研究があってこそ、大輪の花も咲くのである。このままでは国の「研究力」はむしろ低下してゆく一方に違いない。

そして最も懸念されることは、ここ数年で国立大学の整理・統廃合が進むであろうことだ。財政規模の小さい大学は外部資金を多く調達できず、少ない運営費交付金でなんとかやり繰りしているが、それも限界が来るだろう。毎年1%削減(人件費は5%削減)されていて今必死で耐えている状態にあるのだが、さらに削減率が上回ったり、(獲得した競争的資金に比例する割合が増えるというような)交付率の変更があったりすればたちまち行き詰まること必至である。そうなれば、少なからざる国立大学が姿を消すことになるだろう。(精選された学部だけが少数大学に統合され、それ以外は私学に身売りするか廃校となってしまう。)国民の教育権を保障する国の役割を放棄することに等しいのだ。

先進国に比べて少なすぎる予算

これらの問題の根源は、国の高等教育にかける予算が他の先進国に比べて少なすぎることにある。他の先進国では国内総生産(GDP)の1%を超える予算が高等教育に向けられているが、日本は0・5%でしかない。私は、そのような貧困な状態であったにもかかわらず、日本の大学は(国公私立を問わず)よくがんばってきたと思っている。その予算を凍結したまま大学の尻を叩(たた)くのみが日本の施策である現状から言えば、未来は暗いと言わねばならない。

これらの状況は国民にあまり知らされていない。小さい大学の危機的状態には触れず、恵まれた大大学のパフォーマンスしか報道されないためでもある。また、私たち大学の人間の怠慢もある。(「何しろ会議やら書類書きで時間がとれないもので」と言い訳したいのだが…。)今一度、私学の高学費問題も含め、大学が国民にとっていかなるものでなければならないかを真剣に議論する必要があると思っている。

いけうち さとる 一九四四年生まれ。総合研究大学院大学教授。専門は宇宙論、科学・技術論など。著書に『禁断の科学』『転回期の科学を読む辞典』『寺田寅彦と現代』ほか多数。