『化学と工業』(日本化学会)、60巻5号(2007年5月)

論説 化学の将来に向けて

黒田玲子 東京大学大学院教授

 イギリスでは最近28の大学やカレッジの化学科が閉鎖された。何が原因なの
だろうか? もちろん、イギリス特有の事情もあるが、他山の石としなくては
いけないこともあるだろう。あるいはこの傾向は化学の学問としての特質や時
代の流れのためであり問題視することではないのだろうか? 本論説ではその
背景を探り、化学という学問の将来について考えてみたい。また、分子科学推
進のために最近設立されたMolecular Frontiers についても紹介する。

大学化学科存続の危機―イギリスの事例

 サセックス大学化学科が閉鎖されるかもしれないと大騒ぎになったのは昨年
春のことである。Krotoなど2名のノーベル化学賞受賞者を輩出した学科で、過
去2回のRAE(Research Assessment Exercises)で5という高い評価を得たにも
かかわらず、大学は学生数の減少を理由に化学科を解体し生物学科に合併する
案を出した。下院科学技術専門委員会(the House of Commons Science and Technology Select Committee)、王立協会(the Royal Society)など各方面
で議論を呼び、結局、化学科閉鎖案は撤回された。

 これより前に、エクセター大学、ロンドン大学キングスカレッジ、同クィー
ンメアリーカレッジ1)などの化学科が閉鎖されている。キングスカレッジ化学
科は173年の伝統のある、以前、筆者が勤めていたところである。学生数の減
少とRAEで4と振るわなかったことによる予算減少のために、カレッジが学科
の見直し計画を発表したところ、将来に見切りをつけた教員がかなりの数、転
出してしまった。その結果、入学内定者を他に振り替え、閉鎖となった。

 閉鎖は化学科だけではない。2004年、ニューカッスル大学が物理学科(RAE
で4の評価)を閉鎖し、ナノテクノロジー、マテリアルサイエンスなどもっと応
用に近い学科に集中すると発表した。さらに、昨年レディング大学がこれまた
財政困難に対処するために物理学科を2010年に閉鎖をすると発表した。


選択と集中・市場原理の教育への導入

 イギリスの大学に国が支給する予算には、学生数に応じた教育予算と、学科
単位で行われる7段階(52)、5、4、3a、3b、2、1)のRAE評価を反映した研究
予算の2種類がある。学生数が減れば予算は減る。研究費が削られれば学科どこ
ろか大学(カレッジ)の存続が危うくなる。高等教育の大衆化政策でポリテク
ニクを大学に昇格したことから大学数が急増し、大学の差別化を行わなくては
ならなくなった。さらに、2001年のRAEでは研究予算をトップ評価の5 2)と5に
特に集中するようにしたために、研究水準がまあまあの4評価の学科が、経済的
理由で閉鎖に追い込まれているのである2)。

 また、実験が根幹である化学は教育経費がかかる。財政面だけを考えれば、
大学全体としてはコストのかかる学科は好まれず、財政が逼迫すると切り捨て
ざるを得ないことになる。RAEで5 2)をとったオクスフォード大学でさえ、学
部での化学教育で百万ポンド(約2億4千万円)の赤字が出ると指摘している。
大学の自治と市場原理を立て、イギリス政府は基礎科学を教える学科が定員割
れを理由に閉鎖に追い込まれる事態に口を出さないでいる。しかし、いくらイ
ギリス政府がScience、Technology、Engineering、Math(Stem)の重要性を認
識していても、短期的な需要と供給、採算性という市場原理に教育現場をまか
せていれば、化学のような学問の将来は暗いといわざるをえないのではないだ
ろうか。

 幸い日本の大学の学科定員数は今のところ経済要因に左右されることはない。
それに、日本の化学工業は現在好調で、就職状況を敏感に反映して化学科の人
気は高い。しかし、だからといって、安心していていいのだろうか? 国立大
学が法人化され、毎年1%の効率化係数がかけられている。大学は学問の府とし
ていかに新しい知を創造し継承していくか、人材を育成し、成果を社会へ還元
するかだけを議論しているわけにはいかなくなった。いかに経費を節約するか
ということも大きな課題である。国立大学法人の運営費交付金をより競争型に
すべきとする最近の経済財政諮問会議の意見も見逃せない。選択と集中が一層
進み、学長のリーダーシップがさらに強化されれば、地域の国立大学法人や私
立大学等の化学科にイギリスのようなことが起きる心配はないだろうか?

化学のイメージと学問の特徴

 先進国では若者の理科離れが心配されているし、化学に対するイメージも必
ずしも良くない。化学の研究成果や産業が環境に与える負の側面のみが強調さ
れ、我々の生活にいかに貢献しているかは忘れられがちである。化学物質・化
学合成という言葉は"安心な天然物"に対峙するネガティブな印象を持たれる
ものになってしまった。この点に関しては旧日本学術会議化学研究連絡委員会
の[化学者からのメッセージ](平成15年)も参照されたい。

 また、化学の学際的性質と応用に役立つという特徴のために、学問としての
化学の影は薄い。化学は多くの学問に多大な貢献をしてきたが、これらの学問
の進歩が化学の功績によるとは一般には考えられていない。2006年のノーベル
化学賞が真核生物の遺伝情報転写機構を解明した研究に与えられた例からも明
らかなように、化学なくして分子生物学、バイオテクノロジーの発展はありえ
ない。生物系に限らず、化学はマテリアルサイエンス、ナノテクノロジーの基
礎であるし、環境問題の解決には化学の貢献が不可欠である。化学はこのよう
に他の学問に十分浸透したのだから、分子生物学、マテリアルサイエンス、原
子力などの基礎の一部として教えればよく、もはや一つの学問として存続させ
る必要はないという暴論さえ聞こえる。"What chemists want to know"とい
う刺激的記事がNature 2006年8月号(日本語版が10月号)に掲載されているの
で参照されたい。日本においても、「大学の学問は旧態依然として時代の要請
に合っていない。古臭い物理や化学ではなく、ナノテクノロジー、マテリアル
サイエンス、ライフサイエンスを教えるべきだ」と主張する人がかなりいる。
しかし本当にそうであろうか?

 コア学問としての化学がなくなれば、将来、化学を基盤とした新しい学際分
野の学問を創造させるためのコンセプトもツールも提供することはできなくな
るだろう。斬新な産業も生まれてこなくなるかもしれない。将来、科学が解決
あるいは明らかにしなくてはならない問題はたくさんあり、そのどれをとって
も分子、原子、電子的視点が必要である。新物質の合成という他の学問にはな
いアプローチが不可欠なこともある。蛸壺的ではない、科学の基盤としての化
学のわかる人材が育たなければ、将来に禍根を残すことになる。いったん失わ
れた人材育成の流れは元に戻すのに膨大な時間とエネルギーが必要なことは想
像に難くない。そして、何よりも、子供たちが自然や化学反応の不思議、生命
の不思議、分子の世界を感動を持って学ぶ機会を作る必要があるであろう。

Molecular Frontiers の活動

 Molecular Frontiers は、社会における分子科学の理解と認知度を高めるこ
とを目的としたグローバルなVirtual Institute として設立され、現在、スエー
デン王立科学アカデミーが実質的母体である。14ヵ国26人で構成される
Scientific Advisory Board(SAB)がThink Tank として機能し、活動の方針を
決める。26人中8人がノーベル賞受賞者で、日本からは野依良治教授と筆者が参
画している。前出のNature の記事に登場しているR. Hoffman、H. Kroto、
J-M. Lehn、G. Whitesides、R. Zare、A. Zewail もメンバーである。化学の将
来を懸念したことが発端であったために、組織の名称は当初Chemistry
Frontiers という案もあったが、もっと幅広い方がよいという意見もあり(筆
者もその一人)、今のMolecular Frontiers になった。

 活動には二つの柱があり、一つは重要な科学の発展の芽をいち早く見つけ出
しその意味や可能性を議論すること、気候変動、環境悪化などグローバルな問
題の解決のために分子科学ができることを議論すること、そしてもう一つは分
子科学に対する若者の関心を惹起することである。

 紙面の都合上、詳細は省くが、今年2 月にストックホルムで開かれた第1 回
シンポジウムでは、最先端のすばらしい講演とdiscussion が行われた。引き続
き開かれたSAB会議では若者(15~18歳)向けWeb site、MoleClues(Molecules
のミススペルではない!)について議論した。将来は英語だけではなく各国語
に翻訳することも考えている3)。

 化学の明るい未来のために皆で力を合わせていきたいと思う。

1)クィーンメアリーカレッジの化学科は再開されるとのことであるが、どのよ
うな形での再開かはまだ不明である。

2)次回2008 年のRAE ではこの点の改善が図られる予定である。

3)www.molecularfrontiers.org 参照(趣旨に賛同しご支援下さる方は筆者ま
で)。

(c)2007 The Chemical Society of Japan

ここに載せた論説は、日本化学会の論説委員の執筆によるもので、文責は、基
本的には執筆者にあります。日本化学会では、この内容が当会にとって重要な
意見として認め掲載するものです。ご意見、ご感想を下記へお寄せ下さい。論
説委員会E-mail: ronsetsu@chemistry.or.jp