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『陸奥新報』2006年1月8日付

時事随想 大学が法人化されて想うこと


 文部科学省は、二年後の〇七年度に全ての受験生が大学・短大に入学できる
「全人時代」になると予想しています。既に十年以上前から私立・国立大学共
に人口減の大波をかぶっています。私大では〇五年度に学生定員割れが全体の
約30%、百六十大学に及び、さらに定員の半分に満たない大学も十七大学あ
りました。旧国立大学も例外ではなく、人気のない学科は定員割れが見られる
ようになっています。

 大学は中世ヨーロッパ時代に、市民のための知の創造の教育研究が必要であ
るということから、教員や学生によって自発的に作られました。ですから大学
で学んで得たことは社会に返されなければなりません。大学の存立には社会の
評価が重要で、人々の役にたたない大学は必要でないということになります。

 世の中には今、儲けることは良いことだ、民営化はよいことだ、と経済効率
優先の風潮があります。旧国立大学への大波は〇四年の国立大学法人化でした。

 国立大学法人について簡単に説明しますと、これまで国立大学は国からの配
分予算で運営されてきましたが、法人化後は国からの交付金と大学の授業料な
どの自己収入によって経営されることになりました。この交付金も事業の効率
化を求められて、毎年1%ずつ減らされます。付属病院では独立した経営を目
指すため、収入の2%増が求められています。また標準授業料が値上げされる
と、交付金をその値上げ分減らされます。文科省は大学の経営自由度を増やし
てやったから交付金減額分は各大学で工夫しなさいと言っています。

 教育に最重点をおいてきた旧国立大学ではどこでも、足りないお金を調達す
ることは難しく、窮余の策としてスタッフ削減を行わざるを得なくなっていま
す。国立大学法人は今、生き残りの試練の真っ最中にいると言えます。

 明治十九年の帝国大学令第一条によると、教育も学術研究もすべて国家のた
めであり、以来この国家中心主義の傾向が日本の大学の伝統的基本理念となっ
てきたと言えます。しかし近代社会の大学教育はこのような理念で行われては
ならず、教員の教授の自由、学生の学習の自由が基本です。経営の自由度が高
められた国立大学法人は、学生たちが将来のビジョンを描くことができるよう
に、どのような学生を受け入れ、どのようなカリキュラムで何をどのように教
えるか、責任を持って大学を育てられる好機ではないかと思われます。

 大学の教育研究施設は公共財産であり、特に国立大学法人は多くの国家予算
で成り立っていますから、ここで育てられた教員や学生などの人材や研究成果
などは、私たち市民の共有財産です。大学は知的欲求を持った市民に対する生
涯教育など、地域文化基盤の形成にも貢献しなければなりません。大学は市民
と連携し、持ちつ持たれつ一体となって作られていくべきものと考えられます。

 私は日本の大学、とりわけ国立大学法人は、大学が市民によって作られた原
点に立ち、創造的主導性を視野に置き、経営に関しては市民、地域自治体、さ
らに同窓生などから積極的に支援される態勢を作ることが必要ではないか、と
考えています。
(弘前大学教授 豊川 好司)